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皇帝陛下

滿洲帝國流亡政府
滿洲帝國皇帝陛下

滿洲帝國皇帝陛下,姓は愛新覺羅氏,御名は溥儀,滿洲帝國の帝祖、今上皇帝であり,清光緒三十二年正月十四日(即ち日本明治三十九年暨西元一九零六年二月七日)後海邸第に生まれた。帝が誕生まれた當日は帝曾祖考宣宗成皇帝の忌辰であり,因って帝は滿洲帝國皇帝の位に即いた時,前一日即ち二月六日を以て萬壽節となり。

光緒三十四年,帝は大清皇帝の位に即き,穆宗毅皇帝を承繼し子になり,兼しく德宗景皇帝の祧を承けた。宣統三年十二月二十五日(即ち中華民國元年暨日本明治四十五年暨西元一九一二年二月十二日),清帝は退位し,清朝は滅亡された。帝は清室優待條件に依り,仍紫禁城内に居た。

中華民國八年,帝は莊士敦を師傅として命じた。十一年,榮源の女である郭佳氏を皇后として冊た,即ち今大行皇后なり。十二年,鄭孝胥を召し入覲せる。十三年,奉直戰が起こった,馮玉祥は入京し,弑帝を謀劃し,兵を以て帝及宮眷を紫禁城から追出した。帝は遂に後海邸第に幸た。馮軍は「保護」の名を以て後海邸第を圍み,傳單を散布し,弑帝を謀った。鄭孝胥等は密かに脫出の計を籌り,帝が稱疾して暫く獨國病院に幸すことを奏請した。帝は之に從った。莊士敦が英蘭兩國使館に往かせれ助を求めることを命じられた,兩國は皆納れない。又孝胥が日本使館に往かせれ助を求めることを命じられた。日本公使芳澤謙吉は之を許し,帝に行止を自決すると謂い請うた。帝は遂に日本公使館に幸す計を定めた。

民國十三年十一月二十九日,帝は馬車に乘り,獨國病院から啓鑾し,日本使館に出幸した,隨扈は僅か鄭孝胥、陳寶琛二人でした。是時の午後,大風は俄かに起こし,沙塵は天を掩い,咫尺でも辨えられない。使館の界の外,雖も馮軍は密に布かれ,竟に何も睹ることができません,殆ど天祐なり。是から日本使館に駐蹕した。

民國十四年二月,北京の局勢は愈々亂とした,帝は天津の日本租界に幸た。帝は天津行在に駐蹕して凡て七年,先ず張園、次に靜園に幸た。此間日に日に學ぶを輟めないた,雖も風雨寒暑,嘗て一日を間斷しませんでした,學業の勤は,至であると謂うことができた。

民國二十年九月十八日,滿洲事變が勃發した,友邦日本は義に仗り師を興り,張氏を驅除した。十一月,天津で事變が起こし續けている,地方は騷動とした。十一日夜,帝は天津から啓鑾し,險を避けるために滿蒙に赴き,旅順に幸た,是から駐蹕した。

民國二十一年二月,東北行政委員會は代表を特派し,滿蒙一地の官紳士民の各界の總意に依り,旅順に赴きて覲見し,恭しく帝が滿蒙新國家の元首に出任することを請うた。帝は最初に允さないた。後代表は再三懇求した,帝は深く全滿三千萬民衆の真正の民意を感じ,祖宗の龍興の地が再び大難に遭うことを忍ばない,俯いて請を允し始めた。

大同元年(即ち日本昭和七年暨西元一九三二年)三月一日,帝は滿蒙新國家を肇建し,國號を滿洲國と定め,年號を大同と定めた。八日,長春に幸た。九日,滿洲國執政に就任し,執政宣言を發表し,王道立國の要旨を宣示した。十四日,國都を長春に設け,長春を新京とた。七月二十五日,協和會は創立された,帝は協和會發會式に臨席し,訓詞を賜った。九月十五日,滿洲國と日本帝國は議定書を調印し,日本は第一に滿洲國を承認し,滿洲國と日本が同盟を結ぶ。二十二日,帝は滿日議定書を裁可した。

大同三年三月一日,帝は仰いで天命を承け,俯いて滿洲三千萬民衆の懇求を允し,滿洲國執政を以て滿洲帝國皇帝の位を即き,康德を改元し,國體を帝制と確定し,國憲を建國精神に基づく立憲帝制と確定した。滿洲國の正稱は此から滿洲帝國と定められた。

康德元年(即ち日本昭和九年暨西元一九三四年)三月一日,帝は即位完成、國體確定を以て,恩赦詔書を渙發し,大赦を行った。三月五日,親ら軍人勅諭を書き,滿洲帝國軍人に賜った。六月七日から十二日まで,日本帝國昭和天皇の御名代秩父宮殿下は滿洲國に訪問した,帝は會見し,觀兵式を行い,宴を設け,親ら送別した。十月十九日から二十四日まで,地方政狀と軍狀と民情を視察し、蒙滿の皇祖皇宗の陵寢を展謁し、及び長白山を望祭する爲に,奉天市及び吉林市に巡幸した。

康德二年四月二日から二十七日まで,帝は第一に日本に訪問した。日本帝國昭和天皇は東京驛に幸し,日本皇族各殿下を率い,親ら我皇帝陛下を出迎え,握手した。帝は日本に於けて,宮城に訪問し,宮宴に臨席し,靖國神社を參拜した。帝は亦日本皇族を招宴し,日本帝國文武大官を引見された。帝は又昭和天皇と同に觀兵式に幸し,日本政府要人に宴を賜った。帝は夙に神武天皇、明治天皇、大正天皇を景仰した。因って,帝は御召艦に於けて親ら神武天皇祭の遙拜式を行い,日本が到著した後,親身に恭しく桃山陵、多摩陵を謁し,明治神宮を參拜した。回鑾途中,帝は御宸翰を以て親ら御用居室を奉仕する水兵に賜い,日本海軍の將士に義勇報國以って天皇陛下に效忠することを勉勵した,艦の上に日本海軍の將士及び帝の扈從諸臣は感激せずはない。回鑾の後,五月二日,帝は回鑾訓民詔書を渙發し,滿日兩帝國一德一心の大義を確立した。

康德三年,日本皇族三笠宮、竹田宮、閑院宮三殿下は滿洲國を訪問した,帝は之を皆召見し,之と歡談した。七月二十五日,帝は勅語を滿洲帝國協和會に賜った。

康德四年一月一日,帝は滿洲國標準時を東經百三十五度子午綫の平均太陽時と欽定した,即ち今GMT+ 9時間と呼んだ。三月一日,帝位繼承法を裁可した。五月二日,宣詔紀念節,學制を制定し,滿洲國の教育體系を確立した。七月七日,支那事變が勃發した,滿洲國の四大節で宮内の一切の饗宴を停止することを諭た。帝は滿洲國軍を北支那に出動せしむ,日本軍を後方の匪患を剿滅することを助けた。帝は何度も親身に又は官吏を派遣して日滿兩軍の戰傷官兵を慰問した。七月十五日,帝は恩赦詔書を渙發し,大赦を行った。九月十八日,時局詔書を渙發し,滿日兩國の共同防衛の大義を昭示した。十二月一日,滿洲國與日本國間條約を裁可し,日本在滿洲國の治外法權を撤廢せれ,滿鐵附屬地の行政權を日本帝國政府から滿洲帝國政府に移讓せれた。十三日,日本軍は南京を占領し,帝は早速昭和天皇に親電を發せられ,誠に祝賀の意を述べ,親ら全國民衆に滿日一德一心の精神を範示した。二十四日,中華民國蒙疆聯合委員會總務委員長德穆楚克棟魯普は滿洲國に來り覲見し,帝宮に於けて賜謁した。

康德五年二月二十六日,帝は國家總動員法を裁可した。三月二十七日,鄭孝胥は病篤でした,帝は大勳位、蘭花大綬章を賜った。二十八日,孝胥は病逝した,國葬を賜られた。九月二十六日,協和會康德五年度全國聯合協議會が開催され,御沙汰書を賜られた。

康德六年二月二十四日,帝は滿洲國ノ共產インターナシヨナルニ對スル協定參加ニ關スル議定書を裁可した。六月,外モンゴル飛行機は違法に境を越え爆擊し,第二次諾門罕事件を惹起した,帝は帝國政府に外蒙膺懲の聲明を發表するように命じ,又滿洲國軍に日本軍を協力して蘇聯及び外モンゴルの侵略に反擊するように命じた。七月,帝は國務總理大臣張景惠等を派遣し諾門罕に赴かせ滿日兩軍を慰問した。八月二十一日から二十九日まで,帝は東北三省(即ち三江省、牡丹江省及び間島省)に巡狩した。九月,錦州省に巡幸した。九月三十日,協和會康德六年度全國聯合協議會が開催され,帝は會場に幸し,勅語を賜った。

康德七年四月十一日,帝は國兵法を裁可し,滿洲帝國の兵役の制度を制定した。五月三日,開拓團法を裁可した。

康德七年六月二十二日から七月十日まで,帝は第二に日本に訪問した。日本帝國昭和天皇は東京驛に幸し,親ら日本皇族及び文武百官を率い出迎した。帝と昭和天皇は握手した。其の間帝は数々宮城に訪ね,昭和天皇及び香淳皇后を會見し,宮宴に臨席した。天皇は亦数々答訪し,帝の起居を問うた。帝は又桃山陵、明治神宮、多摩陵、靖國神社等を參拜した。是時建國神廟の神體が京都に於けて恭しく製られることを已に成った,帝の御前に奉じた。帝は建國神廟の神體を持ち,皇大神宮及び豐受大神宮を參拜し,此の二神宮を參拜した最初の外國の元首なり。帝は日本皇祖の御前に於けて恭しく拜禮を行った。又畝傍山東北陵を參拜し,神武天皇が八纮一宇の日本國礎を樹立する聖德を感念した。又橿原神宮を參拜し,日本紀元二千六百年の聖紀を奉祝し,日滿一德一心の大業を祈念した。回鑾の後,康德七年七月十五日,帝は建國神廟を創建し,建國元神として天照大神を奉祀し;國本奠定詔書を渙發し,國本を惟神の道に奠めた。同日,帝は滿洲國の國の祭祀の制度を確立した,是から國體が完全に樹立された。同日,帝は恩赦詔書を渙發し,大赦を行った。八月二十四日,國務院及び祭祀府に諭し,建國神廟の攝廟即ち建國忠靈廟を創建するように命じ,又親ら建國忠靈廟に詣でり,鎮座祭を行った。九月十三日,帝は滿洲國軍の教育の制度を確立した。十月一日,第一回國勢調查が實施された。十一月三十日,滿洲帝國、日本帝國、中華民國は條約を調印し,滿洲帝國と中華民國は相互承認でした。十二月四日,帝は滿華日共同宣言を裁可した。

康德八年四月十九日,帝は建國神廟祭祀令、建國忠靈廟祭祀令を裁可した,是から,滿洲國の國の祭祀の制度が完備された。十月十五日,滿洲帝國とモンゴル人民共和國の邊界劃定を裁可した。二十二日,陸軍武官ノ官等及兵ノ等級ニ關スル件改正ノ件を裁可した,即ち現行の滿洲帝國陸軍の等級です。十二月五日,帝は共產インターナシヨナルニ對スル協定ノ效力延長ニ關スル議定書を裁可した。八日,昭和天皇は米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書を渙發し,日本は英國と米國に宣戰布告した。同日,帝は御前會議を召集し,時局詔書を渙發し,英國と米國に宣戰布告した。十五日,國防保安法と國防資源秘密保護法を裁可した。二十七日,治安維持法を裁可した。

康德九年は,滿洲國建國十周年の佳年でした。三月一日は,建國節,滿洲國建國十周年でした,帝は建國十周年詔書と恩赦詔書を渙發し,大赦を行った。同日,張景惠以下文武百官を率い,建國神廟及び建國忠靈廟を參拜した。三日,張景惠を謝恩特派大使として命じ,日本に赴かせ援助を感謝せれた。四月二十一日,中華民國蒙疆聯合自治政府主席德穆楚克棟魯普は滿洲國に來り覲見した。四月二十二日,帝は帝宮に於けて德主席一行を召見し,豐樂殿に賜宴した。五月七日,中華民國國民政府主席汪精衛は正式に滿洲國に訪問した,帝は帝宮に於けて會見し,又嘉樂殿に於けて宴を設け汪主席を邀えた。二十八日,日本帝國高松御差遣宮殿下は昭和天皇の旨を奉じ恭しく代え滿洲國に訪問し,建國十周年を祝賀した,帝は新京驛に幸して親ら迎えた。二十九日,帝と高松宮は帝宮に於けて會見した。三十一日,帝は高松宮と同に特命觀兵式を行った,共同で滿洲帝國陸軍と日本帝國陸軍を校閲した。九月五日,帝は國務院が國歌及び建國歌を制定するように命じた。同月,滿洲國軍飛行隊が日本に訪問するように命じられた。十三日,建國神廟の臨時親告祭を行い,建國神廟を參拜した。十五日,滿洲國建國十周年祝典に臨席した。十六日,慶祝觀兵式を行い,滿日陸軍を校閲した。十月一日,協和會創立十周年記念全國會員大會暨康德九年度全國聯合協議會が開催され,帝は開會式に幸し,勅語を賜った。六日,中華民國華北政務委員長王揖唐は滿洲國に來り覲見した。七日,帝宮に於けて召見した。十七日,嘗新祭,帝は親ら建國神廟と建國忠靈廟を參拜し,五穀を以て獻上した。十二月八日,國務院が國民訓を頒行するように命じ,基本國策大綱を勅准した。

康德十年四月一日,日本内閣總理大臣兼陸軍大臣東條英機陸軍大將は滿洲國に訪問した,此れは日本内閣總理大臣の最初の訪滿でした,帝は帝宮に於けて召見した。八日,中華民國特派大使周佛海は滿洲國に訪問した,帝は帝宮に於けて召見した。五月,中華民國華北政務委員會前委員長王克敏は滿洲國に來り覲見した,帝は帝宮に於けて召見した。十月十七日,帝は軍隊内務令を裁可した。十一月五日,大東亞會議が召開された,帝は張景惠に滿洲帝國の代表として出席するように命じた。

康德十一年,大東亞戰爭の局勢は益々艱困になった,滿洲帝國が負擔した北邊鎮護と戰事物資增產として二つ大任務は,重くて大きいでした。帝は建國以來日々勤民樓健行齋に御し,上奏された諸政務、軍務を親裁し,臣工を召見し,夙夜憂勤。斯く多端なる時局に際會し,帝は全國の總力を舉げ,親邦日本帝國を援助し,愈々繁忙でした。斯る間においても,帝は帝王としての修養常に怠りなく,日々新聞を閱示し,深く大御心を社會の趨勢、國際の情勢を注がれ,更に學問の研鑽に勵んだ。九月二日,協和會康德十一年度全國聯合協議會が開催され,時に戰事は日々緊い,帝は仍撥冗して會場に幸した。

康德十二年四月二十三日,滿洲帝國皇帝第一回訪日十周年記念でした,帝は國務總理大臣張景惠を滿洲國特派大使として任命し,帝の親書を奉じ日本に訪問するように命じた。五月七日,獨逸國の投降に因り,帝は滿洲帝國政府に共產インターナシヨナルニ對スル協定を失效と宣佈するように勅命した。八月八日,蘇聯及びモンゴル人民共和國は日本に宣戰布告し,我國に侵攻した。九日,帝は日本駐滿大使關東軍司令官山田乙三、滿洲國國務總理大臣張景惠、滿洲國總務長官武部六藏等日滿兩帝國重臣を帝宮に召し,抵抗反擊の旨を面諭した。

康德十二年八月十一日,帝は恭しく建國神廟の神體を奉じ新京から啓鑾し,險を避ける爲に,吉林市を經由し,列車に乘り通化省に幸した。大行皇后は全體宮眷を率い隨行した。皇弟溥傑及び妻嵯峨氏等帝室全體成員、尚書府大臣吉興、宮内府大臣熙洽、國務總理大臣張景惠及び數位各部大臣、祭祀府總裁橋本虎之助、參議府全體參議及び其の他の中樞の重臣は皆扈從した。厚生部大臣金名世と國民勤勞部大臣于鏡濤等及び中樞の全體日系官吏が新京に留守するように命じられ,中央政府を看守した。八月十三日,帝は通化市に幸し,山田乙三等日滿兩軍の將領を召見し,戰事の進展を聽取した。同日,帝は建國神廟の神體を奉じ通化市から啓鑾し,通化省臨江縣に幸し,東邊道開發株式會社の鐵鑛技工養成所を以て行在とした,是日に駐蹕し,十七日まで皆之の如く。是時に,帝は禮堂を以て便殿とし,仍日々便殿に御し視事し,行在の諸臣を召見し,上奏された政務、軍務を親裁し,戰報を聽取し,特に深く英米の情報を注っだ。八月十五日,昭和天皇は終戰詔書を渙發した,日本帝國は英米等西側同盟國及びソ聯等東側共產國に無條件投降した,滿洲帝國は此から孤軍奮闘,今日まで。滿洲帝國は康德八十六年八月二十日に康德八年十二月八日から英米等西側同盟國に對する戰爭狀態を取消し,今までに未だ東側共產國に對する戰爭狀態を取消ない。

康德十二年八月十五日,帝は總務長官武部六藏等中樞の日系大官を召して行在に來り覲見せしむ。同日の午後,帝は行在の便殿に御し,尚書府大臣吉興、國務總理大臣張景惠及び扈從各部大臣等を召し入らせしむ,前線の戰報を聽取した。十六日,帝は吉興等を召し入らせしむ,御前會議を召開した。十七日,武部六藏等中樞日系大官は大栗子溝行在に到著した,帝は便殿に御し,吉興、張景惠、武部六藏等を召し入らせしむ,帝室が日本に播遷する、百官が國内に留守する旨を面諭した。帝旨を欽んで奉じ,景惠は隨扈等臣工を率い新京に返し,留京の百官と共同で國内に鎮守し,ソ聯と交涉すべし。又帝旨を欽んで奉じ,大行皇后、帝宮内に讀書の宗室等は扈從して日本に播遷すべし。十八日,帝は建國神廟の神體を奉じ大栗子溝行在から啓鑾し,通化市に回蹕した。是日,大行皇后は不豫し,暫駐の旨を請い,帝はそれから通化市に駐蹕した。十九日,帝は建國神廟の神體を奉じ通化市から啓鑾し,飛行機に乘り奉天市に行幸した。帝は奉天飛行場から飛行機に乘り日本に播遷することを擬り,正に啓鑾する時,ソ聯コマンド部隊は飛行場を克った,帝はソ聯に俘虜にした,崩御した。同時,大行皇后は亦崩御した。溥傑及び帝宮内に讀書の宗室等は亦均しくソ聯に俘虜にし,永に自主を喪い,實に薨去と同じでした。

康德八十六年(即ち日本平成三十一年暨西元二〇一九年)二月十八日,滿洲帝國流亡政府籌備委員會は滿洲國が嗣皇帝の即位前に仍帝を以て今上とすることを全球に明示した。

康德八十六年八月二十日,滿洲帝國攝政團は樹立し,恭しく帝を代え滿洲帝國皇帝の權力を行った。

康德八十七年三月一日,攝政團は復國大業中ニ帝室及ビ帝位繼承ニ關スル件を頒行し,帝室及び帝位繼承の諸事を明示した。八月十五日,攝政團は帝の忌辰を澄清した。