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攝政團、國務總理大臣康德九十一年訪日日誌

滿洲帝國流亡政府

注意事項

攝政團、國務總理大臣薩里達克氏阿斯蘭(サルタク→アルスラン)(SARTAK Arslan)は康德九十一年十月十四日から三十一日まで日本國に訪問しました。

このページは滿洲帝國流亡政府の唯一のmediumアカウントによって發佈された攝政團、國務總理大臣康德九十一年訪日日誌である。其の日誌はみな滿洲語と日本語のバイリンガルです。このページに轉載されてゐる日誌は其の原文と完全に同じです。轉載の際には,各日誌のmedium.comのリンクを記載させてゐただきます。

康德九十一年訪日日誌の目次は次の通りです:
 康德九十一年十月十三日
 康德九十一年十月十四日
 康德九十一年十月十五日
 康德九十一年十月十六日
 康德九十一年十月十七日
 康德九十一年十月十八日
 康德九十一年十月十九日
 康德九十一年十月二十日
 康德九十一年十月二十一日
 康德九十一年十月二十二日
 康德九十一年十月二十三日
 康德九十一年十月二十四日
 康德九十一年十月二十五日
 康德九十一年十月二十六日
 康德九十一年十月二十七日
 康德九十一年十月二十八日
 康德九十一年十月二十九日、十月三十日
 康德九十一年十月三十一日

康德九十一年十月十三日

康德九十一年十月十三日 加奈陀


大同元年三月一日に,滿洲國が建國されました。滿洲國の建國の淵源は,惟神の道に發され,天照大神の神庥と日本帝國天皇陛下の保佑に仰て賴る。大同元年,日本帝國は滿洲國の友邦、盟邦なり。康德二年と康德七年,皇帝陛下は兩回日本に訪問し,滿日兩帝國の永久の基礎を强固し,更に建國元神として天照大神を奉祀し、國本を惟神の道に奠め,以て滿洲帝國の國體の建設を完全にしました。康德九年,日本帝國は滿洲國の友邦、盟邦、親邦なり。日本帝國は滿洲帝國の親邦であり,滿洲國の建國の天業は日本帝國の仗義の援助に倚賴しました。しかして,戰後に憲法を『日本國憲法』に變更した日本國はなほ滿洲帝國の最も親密な友邦である。以上の大義に基づき,康德八十五年四月の滿洲帝國の復國の天業が正式に發足した以來,我薩里達克氏阿斯蘭(SARTAK Arslan)等の滿洲帝國流亡政府の同仁と協和會の同志は,皆滿洲帝國の流亡政府首腦の早期訪日の宿願あり,以て滿日兩國關係の恢復の促進竝に滿洲帝國復國の事業が日本に局面を展開させることを期す。康德八十七年三月一日に,滿洲帝國流亡政府が完全に樹立されました,それから,滿日兩國關係の恢復及び滿洲帝國復國の事業が日本に局面を展開させることは眞正に可能なり。本次の訪日の緣起は,初めて四年前卽ち康德八十七年に全球が武漢肺炎の大流行に陷った際滿洲帝國流亡政府が日本友人達にマスクを公義の心をとり寄贈したことに遡る。

康德八十七年,全球が武漢肺炎の大流行に陷り,當時の日本ではマスク特に不足してゐた。それ時に,滿洲帝國流亡政府は臺灣から二萬枚醫療用マスクを獲得し,それを靖國神社、偕行社等日本の組織及び個人に寄贈しました。マスクを寄贈する過程で,滿洲帝國流亡政府は關聯する日本の友人達と深い緣分を築きました。それ後二年間,雙方の關係は徐々に發展していきました。日本の友人達は滿洲國の眞實の歷史に關する瞭解及び滿洲國に對する原來の情感を一步ずつ蘇生しました。我々は初めて日本帝國が現今の日本になほ精神的な忠良な臣民を存在する事實を知曉し,また初めて日本帝國の精神的遺產が現今の日本の愛國者達に傳承される情況を瞭解しました。

康德八十九年,滿洲國は建國九十周年でした。滿洲帝國流亡政府は滿洲國建國九十周年記念行事を主宰しました。滿洲國建國九十周年記念行事には,若干項の日本向けの活動あり,其の中で最大の者は,建國九十周年を紀念して滿洲帝國協和會中央本部が編纂した『建國の精神』文獻集である。該文獻集は滿洲帝國の國務院總務廳法制處が康德十年に編纂した『滿洲國法令輯覽』の編纂例に依り,各々の揭載された文獻の滿洲文版及び日本文版を揭載しました。滿洲帝國流亡政府は建國九十周年紀念《建國の精神》文獻集を我國と緊密な關係を建立してゐる日本の友人達に贈呈し,滿洲國建國九十周年を紀念して禮物としてました。日本友人達は此の禮物に對して熱烈な歡迎と感激の意を表示しました。それとは別に,康德八十九年の際に,滿洲帝國流亡政府は滿洲國建國九十周年を紀念する爲に,康德九年の滿洲國建國十周年の際に我が皇帝陛下が先國務總理大臣張景惠を以て謝恩特派大使に充ち日本を訪問した先例に基づき,滿洲帝國流亡政府は我を以て謝恩特派大使に充ち日本を訪問する豫定し,以て滿洲國の建國元神である天照大神及び親邦日本帝國の皇祖皇宗に謝恩してゐました。しかし加奈陀政府が時間通りに難民旅行證明書を發行しない爲,康德八十九年の滿洲國建國九十周年紀念の訪日は實現しない。

康德九十年十一月になって初めて,難民旅行證明書が加奈陀政府から送付され到達されました。同十二月,滿洲帝國流亡政府は我が康德九十一年から九十二年の間に訪日の構想に就いて初めて日本の友人と意見交換しました。日本友人は我が康德九十一年十月に日本を訪問するよう建議しました。その後數か月間,滿洲帝國流亡政府は全面的詳細な調查して硏究したことを經過して,最終的に康德九十一年四月二十九日である天長節に我が康德九十一年十月に日本を訪問することを決定しました。その後,關聯する日本の友人達は此度の訪日爲に必要な手配を進行し,滿洲帝國流亡政府は此度の訪日爲に充分な準備を進行しました。

此度の訪日は,滿洲帝國復國事業が正式に發足された以來我國の官民による初めての訪日です。我は此の幸を得でき,我國の官民を代表して友邦に訪問し,欣々然と之に憧れ,甘く啟行し,以て恬然と邦交が促されるを期す。

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康德九十一年十月十四日

康德九十一年十月十四日 東京


本日の午後、我は東京に到着し、日本の土地に足を踏み入れました。初めて日本に来て最初に感じたのは國際空港が我にもたらしたものだった。東京の國際空港が建成させたことは日久し,已に陳舊を顯れ,でも,これは惡いことではありません。凡そ常識ある者は咸な曉知する所なり,先進國ほど基盤施設が陳舊かもしれない。一つは,早く建たれ,早く發展されたため。二つは,古くから建たれ,品質が非常に良いため,長く使用できるためです。東京の國際空港の施設は老舊ながらもよく機能してをり,誠に之を讚ええ。

然し,人々を無比で無力に感じさせるのは,東京の國際空港の言語政策が、實は戰後日本の體制の荒謬を凝縮して顯現してゐるということだ。國際空港のすべての標識、空港內での日本政府のさまざまな業務に關する表や文件は支那語と韓語ものあります。國際空港は支那人と韓國人が毎の字を認識しないことを恐れてゐます。國際空港から出發する鐵道のホームや列車の畫面表示や驛アナウンスには,韓語及び共匪の簡化漢字あり,人々の目と耳を混亂させずにはいられない。日本に足を踏み入れた瞬間から東京の市區に入るまで,自分が日本にゐることにさへ気づきませんでした。これは本當に馬鹿げてゐる。

初めて加奈陀に足を踏み入れたときのことを思ひ出してみると,まず目に飛び込んできたのは,英語と佛語で書かれたきちんとした標識や放送で、加奈陀独特の二つの國語の國家政策をすぐに感じさせるものでした。しかし,現在日本の國際空港で行はれる言語制度は,人々に混亂を與へるだけでなく,戰後の日本が日本語に對して文化的に自信を持ってゐないという印象を人々に與へてゐます。日本には日本語というただ一つの公用語があり,社會全體の共通語となってゐます。第二次世界大戰後,英語は全世界の第一の共通語となってゐます。日本のすべての國際空港は,すべての標識や放送を日本語と英語で表現するだけでよく,何故反日思想が主流の共產支那や南韓等の政權下の民衆を喜ばせるためにそこまで卑屈でなければならないのでしょうか。今の日本は,日本帝國には及ばないが,でもなほ日本帝國と同様に世界第一級の大國である。一つ大國は,唯一の國語に確固たる明確な文化的自信を持たず,地位を下げて醜類と付き合ふ,人々を笑わせることしかできません。

我が滿洲帝國は先在の康德皇帝に由って欽定の國語制度の成憲あり,我々はそれを原の狀態に恢復するだけでよい。先在の康德皇帝に由って欽定の國語制度では,滿洲語と日本語は完全に同等の地位を持った滿洲國の二つの公用語の制度であり,滿洲語と日本語は滿洲國の全部の政府機關での使用に關する完全に同等の地位及び權利を有すべし。我國の二國語制度は加奈陀の二國語制度と多少似てゐます。我が滿洲帝國は永遠に戰後日本が建國精神と文化的自信を失ふという醜劇に決して陷ることはありません。

先在の康德皇帝に由って欽定の國語制度では,滿洲語と日本語は完全に同等の地位を持った滿洲國の二つの公用語の制度であり,滿洲語と日本語は滿洲國の全部の政府機關での使用に關する完全に同等の地位及び權利を有すべし。この制度は重大の意義を具有し、滿洲國の國體の一部であり、永遠に遵行されなければなりません。

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康德九十一年十月十五日


康德九十一年十月十五日 東京


午後二時,我は先に南池袋に至り,日本帝國の原任の內閣總理大臣東條英機の墓を參拜しました。東條英機は我が皇帝陛下が治世中に已に皇帝陛下政府に由って昭示した滿洲帝國の功臣であり,また初めて滿洲國を訪問した日本內閣總理大臣でありました。

我は東條首相の墓前に於けて,先に謹んで禮を行ひ,そして敬て墓前に立て,東條首相の一生が滿洲國と日本及び大東亞に對する深遠な影響を思ひ回す。

東條首相は曾て關東憲兵隊司令官、關東局警務部長を就任し,一手に關東州及び南滿洲鐵道附屬地の警察制度の整備を主導し,南滿の全體的な安全の形勢が重大の進展を取得しました。康德四年十二月一日に南滿洲鐵道附屬地の行政權が滿洲國に移讓され時,南滿洲鐵道附屬地の警察系統,直接に日本警察から滿洲國警察となりました。これは,滿洲國は直接に一つの一連の專門的な警察系統全體を接收しました。原南滿洲鐵道附屬地の警察は滿洲國の全國の警察の典型となり,したがって大いに滿洲國の警察制度の健全と發展を促進しました。その中で,東條首相のその功が甚だ偉い,當然のように關東軍參謀長を昇進しました。東條首相は質樸な人だ,關東軍參謀長を就任した後,曾て我が皇帝陛下に覲見し,言辭が謙卑し,盡く率直と質樸の眞性情を顯す。東條首相の墓前に立ち,我の心情は平靜です,東條首相の一生の行狀が我の心中に於けてゐました。

東條英機の墓を參拜した後,護國寺に南下して,日本帝國の原任の關東軍司令官、滿洲帝國駐箚日本帝國特命全權大使、元帥、陸軍大將、男爵武藤信義の墓を參拜しました。武藤信義の墓の具體の地理的位置は,インターネット上に記錄はなく,護國寺の墓地にあるということしか分かりません。此處には墳塋が甚だ多いて難くこれを尋ね,我はしかたなく風化した樣子の庭師に助けを求め,言葉の壁があるので,携帯電話の畫面を見せることしかできませんでした。該庭師は我が武藤信義の墓を尋ねてゐることを知ると,すぐに作業を中止し,積極的に手傳いました。彼はまずインターネットで檢索しましたが無駄で,その後其の主管を聯絡しましたが絲口がかりは見つかりませんでした。最終的に,彼は別の同僚に直接聞いて,武藤信義の墓の位置を知りました。そして自ら我を武藤信義の墓前まで案內し,間違いが無いことを確認して去ってゐきました。我は武藤信義の墓前に立ち,これに瞻仰して參拜する前に,日本人の善良に深く感動しました。想像してみてください,これは日本の一つの下級勞働者のみであり,我の身元を知りません,彼はとても熱心に助けてくれます。これ民衆は,共產支那はおろか,欧米のでも見たことがないではないか。日本帝國は滿洲帝國の親邦であり,雖も今日の日本國は日本帝國ほどではありませんが,それでも滿洲帝國の最も親密な友邦です。現在の滿日關係の親近の程度は,雖も滿日兩帝國の親邦の關係ほどよくはない,しかしなほ滿洲國が世界の其の他の諸國と開展することのできる邦交よりまだはるかに優れてゐる。我々は,今日の日本國が,日本の肇國の精神と日本帝國の國體に對する破棄したことに由って,精神の領域及び政治制度の領域に於いて我が滿洲帝國の導師となることができませんであり,しかし,其の他の領域では,現在の日本國は,滿洲國の建國の精神に違反しない前提の下,なほ滿洲國人の首要の導師となすべしことを深刻に體得すべし。

武藤信義の墓を瞻仰したとき,我が最初に思ひ出したのは,康德九年三月に我が先國務總理大臣張景惠が皇帝陛下の旨意に奉じ、我が康德皇帝が昭和天皇へ親書を携帶し、そして謝恩特派大使を充派されて日本に訪問し、以て我が滿洲國建國十周年の盛事を紀念することです。滿洲國建國十周年紀念の盛事は,もう八十二年も經つんですね。今日に我は張景惠を繼任して國務總理大臣として,つひに再び滿洲帝國の全國の官民を代表して武藤信義の墓參拜しました。もちろん,張國務總理大臣は今日我ほど武藤信義の墓を見つけるのに苦勞する必要はありませんでしたが,我も張國務總理大臣も同じ篤敬の心から武藤信義の墓を參拜することにしました。武藤信義は曾て日本の關東軍司令官を兩度出任し,二度目に出任した時已に滿洲國の大同時代になってゐました。武藤信義は初の日本駐滿洲國大使でした。武藤信義は日滿兩軍の協同作戰を指揮して熱河を平定し,我が大滿洲國の江山社稷に就く居り功が偉い,最後に勞瘁に因って滿洲國新京に在職中に薨去しました。武藤信義は滿洲國の爲に命を捧げた日本側の最高位の軍人であり,建國忠靈廟の諸英靈の中で日本國軍の最高位の軍人でありました。武藤信義の墓前に,武藤信義の元帥副官万城目武雄が書いた墓誌を樹立しました。その墓誌は文言文を以て書き,其の文の言辭が懇切です,墓誌の佳作をせずない。今インターネット上に此の墓誌のテキスト版は存在しないと思ひ,今後機會があれば我が滿洲帝國政府の官吏を原文に依り之を入力せしむ,以て廣く武藤信義の功を萬邦の萬民に傳えるべし。

我は武藤信義の墓前に於いて,先に謹んで禮を行ひ,そして敬て墓前に立ち,武藤大使が一生に滿洲國、日本及び大東亞に對する豐功偉績を回思して,また先國務總理大臣張景惠が曾て墓前に立ち祭拜したことを思ひ,再び今日に日本民衆が我に對して熱心な幫助を念ひ,心情の平靜が難しいです。

武藤信義の墓を拜んで,我は武藤信義の墓から徐々東に行く,土肥原賢二の墓に至り,其の瞻仰、行禮、敬思が前の如く,贅言ではない。

武藤信義の墓は,康德九年三月に張景惠先國務總理大臣が謝恩特派大使を充派して日本を訪問した時曾て之を參拜し,それかれ成例が樹立されました。武藤信義は初任の日本駐滿洲國大使であり,『滿日議定書』の日本側の全權委員であり,建國忠靈廟の中に日本側の英靈の中に最高位の軍等ある者(日本陸軍大將)であり,實に國務總理大臣が親しく拜くことを堪へます。滿洲帝國復國の天業は謹んで復國の本義卽ちそのまゝ復國に遵ひ,故に嗣後凡そ滿洲國の官民は政務に因って日本を訪問し,みな武藤信義の墓を參拜すべし。

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康德九十一年十月十六日

康德九十一年十月十六日 東京


今日,我は日本の諸友人達を會見し,合計三回の會談を行ひ,一日中續き,多くの議題を交流し,多くの事務を疏通しました。

今日の第一回目の會見の處は,吉祥寺の附近に在りました。吉祥寺という名はよく吉祥であり,我が此の行での日本友人との初の會見が吉祥の結果をもたらすことを豫示してゐるやうです。

紙幅が限られてゐる爲,訪日日誌では,現在の讀者に對して最も重要な兩の議題についてのみ言及します。

一つは,第二次世界大戰における日本の敗北の原因を解析することである。我は,第二次世界大戰における日本の敗戰の主な表面的原因は國家大戰略の重大な誤りであり,主な内的原因は當時の日本の官民が肇國の精神から全面的に偏離してゐたことであることを明確に指摘しました。この言が出られるとすぐに,多くの日本の友人達の共感を呼びました。當時の日本の官民が日本の肇國の精神から全面的に偏離してゐたことを解說する際,我は “天皇機關說”という著名な僞說を以て例に擧げて,大正天皇が卽位して以來日本の全國の官民が德政を思はず、聖心を體せず、奉公に惰り嚴重の惡果をもたらことと批評しました。所謂「天皇機關說」は大正時代に流行し,明目人であれば誰でも容易に理解できる『大日本帝國憲法』を曲解する僞說であったが,日本帝國政府の文官考試の標準答案となり長く十數年であった,康德二年(日本昭和十年)まで日本の官憲によって糾正されることはなかった。日本帝國の歴史に比較的詳しい日本の友人達はまた例に擧げて日本の肇國の精神及び日滿兩帝國の原有の特殊な關係についてさらに我と談論しました。我はまた勢ひに乘じて「當時も世界は滿洲國を必要としてゐたが,今では世界は更に滿洲國を必要としてゐる」と明示し,衆人の贊同が得ました。

二つは,日本の友人達からの共通の質問に答へて,我は未來の日本の復興において憲制で注意を拂はなければならない若干の問題を簡潔かつ直接的に指摘しました。その要旨は,一言で言えば,法的手續き的正義が,一つ国の法制を建設する過程において最も重要であるということである。如何なる上策または最善の道は,法的手續きという點に合法です。衆人は之に深い理解と同意を表しました。

この外に,我はまた會見で出席した各々日本友人に我の今回の訪日の精神を總括する康德九十一年十一月六日に發佈される『攝政團諭』の要旨を傳達しました。

會談は非常に成功し,日本友人達が滿洲帝國流亡政府と我に對する信任と理解を增進しました。

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康德九十一年十月十七日


康德九十一年十月十七日 東京


今日は嘗新祭である。

今日は午前十時頃に,我は東京國立博物館に到着しました。東京國立博物館は日本帝國の原來の東京帝室博物館でありました。我が皇帝陛下は康德七年訪日の時に,曾て玉步が親しく東京帝室博物館に臨みました。皇帝陛下の駕が臨む時に,東京帝室博物館はのみ本館と表慶館という兩建築でありました。

我は最初に表慶館を參觀しました。表慶館は現在に日本競馬會が主辦した日本競馬の歷史に關する展覽を擧行しました。表慶館を參觀した後,我は本館を參觀しました。江戶時代の著名の地圖『五海道其外分間延繪圖並見取繪圖』觀覽してゐる時,兩支那人が我の身邊に通り過ぎ,『五海道其外分間延繪圖並見取繪圖』に對する無禮の言葉が大きに放し,「『五海道其外分間延繪圖並見取繪圖』は非常に退屈だ,『淸明上河圖』は及ばない,この日本文化はは本當に退屈だ云々」を聲言しました。これを聞いたとき、我は心の中で大笑ひしました:「『淸明上河圖』が宋の汴京城を畫き,しかし『五海道其外分間延繪圖並見取繪圖』が江戶時代の五海道の地圖を畫き,五海道は一つの城の五つの街ではなく,しかし關東及び關西を連接した五つの陸上交通の主幹道であり,當時の日本の中心地域全體に廣がり,地理的範圍は一つの汴梁城よりもはるかに廣かった——兩者の間には比較の余地はありません。この二冊は『淸明上河圖』と『五海道其外分間延繪圖並見取繪圖』を比較してゐるが,そのような盲目的な比較をする人は無意味である。また,宋の汴京城は確かに當時非常に繁榮してゐましたが,その繁榮から數年も經たなゐうちに積極的に金朝を挑發して金朝が北宋を滅ぼす靖康の變を引き起こしました。いくら宋の都である汴梁が繁榮してゐたとしても,最終的には金軍が汴梁城にある富貴をすべて詰め込んで,故鄉の滿蒙に持ち歸ることはなかったでしょうか?特に,金が北宋を滅ぼすことは,完全に北宋を合法的な方式を以て滅亡せしむた,金人が自ら汴梁城の財貨人口を空にしたのではなく,北宋の尙書省を直接佔領し,北宋政府軍を指揮して汴梁城の搾取を完了した,それを梱包して金の兵營に送りました。我は不思議に思ひました,どうしてあの人はそんな無知な考えを持つことができるのでしょうか?東京國立博物館の來館者を見ると,日本の外からの外國人が大きな割合を占めてゐます。こうした外國人の中で支那人だけが何も理解しておらず,自分たちが無知であることに氣づいてゐない。他人の博物館を訪れるのは無知の治療法だが,支那人は全く理解せずに指をさして指をさす——大多數の洋人は雖も漢字を知らず,東亞文化を理解してゐないため,展示物の多くを理解することはできませんが,しかし少なくともすべての洋人は注意深くそれらを觀察してをり,たとえ注意深くそれらを觀察しないとしても,静かで,無禮なことを話してゐるようには見えませんでした。支那人が死に最も近づいてゐるのは明らかですが,彼らはまだ死活かわからないのですから、黑暗な未来があるからといって自分を責めないでください。

支那人に匹敵するのは「先進國として小支那」の地位にある韓國人だけだ。我は本館を參觀した後,そして東洋館を參觀しました。東洋館內に一つの平壤樂浪土城から出土した瓦當あり,日韓合幷後の朝鮮半島で出土されたものでしょう,「大晉元康」の文字をそれに刻まれ——日本人ですら展示品の紹介で明らかにしてゐましたが,「樂浪の政治狀況を表すと同時に歷年代が分かる重要な資料です。」明らかに,瓦當は,建物の部品であり,貨幣ではありません。樂浪土城に晉朝の年號が刻まれた瓦當が存在することは西晉が漢四郡に對する漢と曹魏の統治を繼承したことを證明するのに十分である。ところで,元康は西晉の著名な馬鹿皇帝である晉惠帝司馬衷の年號の一つであり,元康時代は西晉の八王の亂の時である。このことからわかることは,西晉の八王の亂の大混亂期においても,漢四郡に對する西晉の統治は依然として存在してゐた。その一方で,韓國の歷代の政要はらは多かれ少なかれ「日本から韓國文化財の返還を求める」という僞命題をを喧傳してきた。韓國人は自分たちを困らせるために「大晉元康」と刻まれた文物を韓國に奪もうとしてゐるのだろうか、と思わずにはいられない。最初は傲慢で、最後には敬意を表しますが,それを考へると人々は笑ってしまゐます。

これ外に,我は特に好太王碑文の拓片の展覽の位置に關して詢問しました。職員によりと,好太王碑文の拓片は東洋館四層にあるが,現在は展示されてゐないという。東京國立博物館は入れ替へ展示制を採用してゐるため,すべての展品が常時展示されてゐるわけではありません。今回の東京國立博物館訪問でもそれが心残りとなった。

東京國立博物館を參觀した,晝食をとった後,南に湯島聖堂へ向かひました。

湯島聖堂は聖橋の東北に位置し,德川幕府時代に建てられた日本初の孔子廟です。康德二年四月十三日,我が皇帝陛下は親しく湯島聖堂に詣でり,孔子を參拜しました。我が皇上は滿洲國を創建した以來,滿洲國に於けて大同二年九月二十八日に秋丁祀孔の時に親しく孔子を拜んだときの一度だけである。皇上は極を御した以來,康德二年四月十三日に日本を訪問した期間に親しく湯島聖堂に臨み親しく孔子を拜んだときの一度だけである。

湯島聖堂の形制は,滿蒙と禹域の兩地の孔子廟の形制とは大きく異なります。康德二年四月十三日に,皇帝陛下は大成殿に入り,先に孔子に禮を行ひ,後に四配に禮を行ふ。

湯島聖堂は雖も當年の勝景に似からず,然し今まで香火が絕えず,再び孔子の崇高な地位が東亞の全體の民衆の心の中にすることを體現しました。正道の重光の時に待ち,十中八九湯島聖堂もは改めて當年の勝景を獲得することができるだろう。

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康德九十一年十月十八日



康德九十一年十月十八日 東京

今日は日本友人と新宿で晝食をしました。該日本友人の祖父はかつて滿洲帝國政府に勤務し,著名な滿洲國日系官吏——國務院總務廳次長古海忠之の下屬だった。

日本友人は滿洲國の民族協和に關連する問題に關心を持って,同時に今日の日本の愛國者に共通する欠点もあります。それは,滿洲國の「五族」に關して,ヤルタ體制下の誤った「民族」、「族群」槪念の影響で,誤った考へや懸念を抱いてゐるということである。我は,どのような民族であっても,建國の精神と滿洲國の法令を守る限り,全員が滿洲國の同胞であることを強調します。我は更に共產黨は滿洲國人を滿洲國人に對して挑發するのが好きなので,この敏感な問題については細心の注意を拂ふ必要があると指摘しました。我はまた「五族協和」という用語は滿洲國建國の初期に使用され,すぐに具體的な數値用語を示さずに「民族協和」に變更されたことも明らかにしました。滿洲語と日本語では,民族の唯一の意味は民族グループであることに注意してください。

日本友人もまた協和會の設立の意義について,日本の愛國者の間で共通の誤解を抱いてゐる。我は『滿洲帝國協和會の根本精神』に基づき,協和會が政黨ではなく國家機構であるという事實を明示しました。我はまた滿洲國の獨特な王道政治について簡單に講解し,滿洲國には政黨政治が適用できないという事實も說明しました。また我は阿洲¹の例と滿支兩國の例を擧げて,滿洲國や支那を含む多くの地方で政黨政治が機能してゐないことを說明しました。

日本友人も建國大學にとても興味を持ってゐますが,同時に,建國大學に對して現在の多くの日本人が抱いてゐる誤解も持ってゐます。我は日本友人に,建國大學が特殊であり,國務總理大臣に由って管理するものであり,文敎部の管理下にないことを根氣よく說明しました。日本友人は現在の東京大學と建國大學を比較したいと考へてゐます。我が直接指摘したいのは,日本帝國の東京帝國大學は日本帝國文部省が管理してゐるのに對し,建國大學は滿洲帝國國務總理大臣が管理してゐるということであり,通常,國務總理大臣が建國大學總長を直接務めてをり,建國大學の敎授は全員滿洲帝國の高等官である。比較的適切に比較する爲に,東京帝國大學と比較できるのは,實は新京法政大學などの滿洲國の國立大學であると言へるでしょう。

最後に,我は日本友人に世局の進運と滿洲帝國復國事業について簡要に講解しました。また我々は雙方の業務に關する幾つか事情について意見を交換しました。晝食は日本友人と我が滿日兩帝國の精神一體の如く特殊關係について話して終はりました。この日本友人は以前滿洲國建國九十周年を記念して滿洲帝國協和會中央本部が編纂した『建國の精神』文獻集を受け取ってゐた。我は彼から贈られた『建國の精神』文獻集に題詞(記念や勵ましの言葉)を書き記しました。彼はまた自分の著書を我にくれて,それに題詞(記念や勵ましの言葉)を書き記しました。

午後,我は遊就館を參觀しました。皇帝陛下は康德七年訪日中に曾て遊就館を參觀しました。遊就館の特別展「兵食」を參觀後,我は「軍隊の輜重は軍隊の一切の行動の基礎です。この特別展の主題は非常に重要です。”」と記念感言を書き記しました。

遊就館は我が皇帝陛下が康德七年訪日の際に、張國務總理大臣が謝恩特派大使と充て康德九年訪日の際にみな參觀の所である。遊就館は靖國神社の博物館であり,主に靖國神社の英靈の行跡を展示し,其の功績を宣傳し,實に靖國神社を參拜する者の必ず參觀したい所です。言ふまでもなく,我が皇帝陛下が康德二年及び康德七年に二度訪日、張國務總理大臣が謝恩特派大使と充て康德九年訪日等等よう滿洲帝國皇帝、官吏、一般臣民人等が康德皇帝の治世中に全部の政務に因って訪日は,皆靖國神社を參拜せざるなし。滿洲帝國復國の天業は謹んで復國の本義卽ちそのまゝ復國に遵ひ,故に嗣後凡そ滿洲國の官民は政務に因って日本を訪問し,みな靖國神社を參拜して遊就館を參觀すべし。

¹ 阿洲とは,阿弗利加洲(アフリカ洲)の略稱です。

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康德九十一年十月十九日


康德九十一年十月十九日 東京


今日に靑山靈園に出向いて日本原任臺灣總督乃木希典の墓、日本原任滿洲國駐箚特命全權大使菱刈隆の墓、日本原任滿洲國駐箚特命全權大使梅津美治郞の墓、日本原任外務大臣松岡洋右の墓、日本原任外務大臣後藤新平の墓を參拜しました。

先ずは乃木希典の墓を參拜しました。この墓は乃木希典だけでなく,その內に乃木希典の妻や二つの息子らの墓碑もある。乃木希典の息子は二人とも日露戰爭で殉國,つまり滿洲で亡くなってゐます。乃木大將の二つの子の墓碑に各々乃木勝典が金州南山に戰死し、乃木保典が爾靈山に戰死した事跡を記載されという望見して,思わず「乃木家は眞に滿門で忠烈ですね」と言はざるを得ませんでした。先國務總理大臣鄭孝胥は乃木大將が殉死したなったとき曾て吊祭の詩の一首を作り,我が皇帝陛下の治世中にこの詩は滿洲國の學生にとって必學の詩でした,その詩は宣統四年壬子に作られ,詩曰く:
性情挾禮義,勃然在一髮。
百世猶興起,壯哉此賢匹。
君臣與夫婦,同盡意何決。
似含厭世旨,棄濁自成潔。
知君百戰餘,視死遠勝活。
功名出至哀,垂老郁勁烈。
苟非斷脰擧,殊負一腔血。
平生信詩書,助汝捨生熱。
中原今何世,誰復識名節?
綱常旣淪喪,廉恥遂澌滅。
聞風獨酸鼻,感動為悽絕。
低回誦遺篇,夢魂逐豪傑。

乃木大將の夫婦が殉死した時,時人は皆盛評を之に予へ,鄭國務總理大臣は亦乃木の行爲が頗る古風を守ることを因って之を贊頌しました。

乃木希典の墓を參觀した後,我は菱刈隆の墓を出向いました。今日に頗る緣があるとなりことは,我は菱刈隆の息子の妻の葬儀に偶然遭遇しました。我は菱刈隆の息子の妻の葬儀に菱刈隆家族とともに參列しました。我は滿洲帝國復國運動と我の狀況を菱刈隆の家族に簡要に紹介し,彼らは滿洲帝國復國運動の存在にとても驚いてゐました。雙方とも,この出會ひが眞に見事な緣であることを實感しました。菱刈家の諸人は多く我の基本的な情況やこの訪日の情況について親切に質問してくれました。菱刈家の諸人と簡單な交流をさせていただきました。

菱刈隆の墓を參觀した後,我は南へ向かひ梅津美治郞の墓を參拜しました。梅津美治郞は皇帝陛下によって滿洲國の大勳位を賜り唯二の滿洲國駐箚日本特命全權大使である(もう一人は植田謙吉)。滿洲國の大勳位は,その榮譽は至高で,一般的に君主制をとってゐる外國の元首にのみ贈られます。日本帝國昭和天皇は曾て此の至高の勳位を贈られました。我國の大勳位を賜り人臣として者は,現在,初任國務總理大臣鄭孝胥一人だけであり,薨去なる前一日に賜りました。植田謙吉と梅津美治郞が大勳位を賜ることは,なぜなら,彼は滿洲國駐箚日本特命全權大使として其の元首である日本帝國天皇陛下を全權代表して日本と滿洲帝國の外交事務を決断する大權あり,そして同時,滿洲帝國の發展及び日滿兩帝國の特殊關係の發展に對する特殊な巨大な貢獻をしました。

これ外に,梅津美治郞の墓に關して,我が康德皇帝が治世中に滿洲帝國の成憲に基づき,梅津美治郞は我國の大勳位の受賜者である。梅津美治郞は戰後に歿に且つ所謂「東京審判」に由り「判刑」を受けて投獄されて獄死しました。梅津美治郞の墓を參拜することは,滿洲帝國が全面的な系統的な黑白を顚倒されるヤルタ體系に對する一貫的な反對の態度を明徵にするのに役立ちました。梅津美治郞は大勳位を受賜され,鄭孝胥も大勳位を受賜されました。國務總理大臣鄭孝胥の墓を參拜することは滿洲國の官民に對して道義的應該應分であり,梅津美治郞の墓を參拜することは滿洲國の當今の官民に對して道義的應該應分である。したがって,嗣後凡そ滿洲國の官民は政務に因って日本を訪問し,みな梅津美治郞の墓を參拜すべし。

これ外に,我はまた二つの日本外務大臣、滿鐵總裁を勤務した日本側顯官松岡洋右と後藤新平の各々墓を參拜しました。

本日の晚に日本友人達と會見し,幾つかの事務に就いて談話しました。

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康德九十一年十月二十日



康德九十一年十月二十日 東京


今日の正午,我は親しく多摩陵、多摩東陵、武藏野陵、武藏野東陵を拜みました。

多摩陵、多摩東陵、武藏野陵、武藏野東陵の聖域に足を踏み入れたとき,聖行が至高であると感じ,特に神鎭を望見した瞬間に,のみ聖德に對する限りない景仰とじました。

我は表參道を步いて多摩陵に向かひましたが,神鎭を望見した瞬間,我は思はず立ち止まって,長い間神鎭を瞻仰し,心中にただ思ふの者は大正天皇の聖德である。大正天皇は仰て明治天皇の基業を承り,歐戰での日本帝國の勝利の良機に乘じて,出兵して西伯利亞干涉を參加し,ソ俄の東進を遲らせ,全滿に對するソ俄の脅威を緩解するのに大きな役割を果たした。我は陵前に親しく拜禮を行ひました。

多摩陵を參拜した後,多摩東陵に向かひました。神鎭を望見した瞬間,我は思はず立ち止まって,長い間神鎭を瞻仰し,心中に貞明皇后の懿德を追想してゐました。皇帝陛下は七歲で母喪後から,康德二年四月訪日時に初て貞明皇后を遇ふことまで,皇母ありません。貞明皇后と皇帝陛下は深い緣あり,僅か一度會ひた母子の緣分を結緣しました。康德七年訪日時に,貞明皇后は已に皇帝陛下を大正天皇の實の皇子の如く待ひ,二人の會面は長い別れを經ての母子の再會のようだった,而して我が皇帝陛下はまた貞明皇后を實の皇母の如く待ひ,貞明皇后を侍奉して大宮御所を遊覽しました。我は貞明皇后の神鎭前に肅立し,心中にただ思ふの者は貞明皇后と我が皇帝陛下の母子の情懷である。我は陵前に親しく拜禮を行ひました。

多摩東陵を參拜した後,武藏野陵に向かひました。武藏野陵前はとても廣く,遠くからでも昭和天皇の神鎭を直接見ることができます。昭和天皇が滿洲帝國の建國、護國に對する功は山のように高く、海のように深く,乾德は恢弘であり,數へ切れないほどありました。昭和天皇の乾德を思ひ出しながら前に進みました。昭和天皇は早年に明治天皇の皇長孫として,良好な儲君敎育を受け,中華民國十二年曁日本大正十二年,攝政としてまた皇太子として昭和天皇は臺灣に行啓しました,それは當時の盛事である。大同元年三月一日に滿洲國が建國し,同年九月十五日,昭和天皇の日本帝國政府は滿洲國を承認しました。英米が率先して我が滿洲國を承認しないことに對面して,日本帝國は滿洲國を承認した最初の國家となり,「群疑ら冒じて避けず。」大同二年三月,日本帝國は滿洲國を爲に義に仗り國際聯盟を脫退し,昭和天皇は特に詔書を發佈し中外に滿洲國の建國の偉大な意義を公告し,「衆咎を犯して辭せず。」康德元年に我國の國體が帝制として確定され,同年の夏に日本帝國天皇陛下の御名代宮である秩父宮殿下は訪滿しました。康德二年に我が皇帝陛下が第一回訪日し,昭和天皇は「懇切相待ち、備さに優隆を極め」,日本帝國官民は「熱誠迎送」である。康德七年に滿洲國の國本が惟神の道の奠め,我が皇帝陛下が建國神廟を建立する盛情は,昭和天皇の首肯を得て初めて無事に完成しました。我は陵前に親しく拜禮を行ひました。

武藏野陵を參拜した後,武藏野東陵に向かひました。香淳皇后の神鎭を望見して,我は香淳皇后の坤德を思ひ,香淳皇后の御靈が現在の日本皇家が多子多孫となることを襄助ができて,儲君の數量奇少の圍が早く解かれることを祈望しました。我は陵前に親しく拜禮を行ひました。

滿洲帝國皇帝と日本帝國天皇は精神を一體の如く,滿洲帝國と日本帝國は精神を一體の如く,滿洲國の建國の淵源は仰て天照大神の神庥、日本帝國天皇陛下の保佑に賴り,故に,我が皇帝陛下の康德七年訪日、張景惠國務總理大臣が謝恩特派大使を充派され康德九年訪日は,みな神國日本の開國の天皇卽ち神武天皇の山陵、日本帝國列聖列后の山陵を參拜しました。滿洲帝國復國の天業は謹んで復國の本義卽ちそのまゝ復國に遵ひ,故に嗣後凡そ滿洲國の官民は政務に因って日本を訪問し,みな神武、明治、大正、昭和の四代の天皇及び皇后の山陵を參拜すべし。

午後,我は多摩靈園に向かひ滿日兩國の功臣の墓を參拜しました:

原任滿洲帝國治安部警務司長、滿洲帝國協和會中央本部總務部長、滿洲映畫協會理事長甘粕正彥
原任日本聯合艦隊司令官東鄕平八郞
原任日本滿洲軍參謀總長兒玉源太郞
原任日本滿洲軍第一軍司令官黑木為楨
原任日本關東軍司令官、侍從武官長本庄繁
原任滿洲帝國祭祀府總裁、參議府副議長、滿洲帝國協和會中央本部長橋本虎之助
參拜方式はこれまでと略同じですので,贅言しない。

原任日本關東軍司令官、日本侍從武官長本庄繁は,曾て我が康德皇帝により大勳位を下賜されました。皇上が本庄繁に大勳位を賜ひ時期はとても早い,御極の始であり,以て其の滿洲事變中に至偉の功績を表彰しました。本庄繁は康德元年に日本帝國天皇陛下の勅許を受けて之を佩用しました。本庄繁は唯三の大勳位を賜り日本帝國の臣民(調查によるとその唯三の大勳位を賜り日本帝國臣民はみな關東軍司令官,その外の兩人は植田謙吉と梅津美治郞)である。本庄繁と植田謙吉、梅津美治郞の違ひは,植田謙吉と梅津美治郞はみな滿洲國駐劄日本特命全權大使,而して本庄繁が日本關東軍司令官に在任してゐるとき滿洲國と日本帝國は未だ國交を建立してゐなかった。したがって,本庄繁は唯一の一つの滿洲國駐箚日本特命全權大使を務めたことのない關東軍司令官となる大勳位を賜った者なりました。本庄繁は大勳位を受賜され,梅津美治郞は大勳位を受賜され,鄭孝胥は大勳位を受賜されました。滿洲國の今日の官民は鄭孝胥の墓と梅津美治郞の墓を參拜すべし,故に滿洲國の今日の官民はまた本庄繁の墓を參拜すべし,したがって,嗣後,凡そ滿洲國の官民は政務に因って日本を訪問し,みな本庄繁の墓を參拜すべし。

原任滿洲帝國祭祀府總裁、參議府副議長、滿洲帝國協和會中央本部長橋本虎之助は,滿洲國の日系官吏の中で此れ迄のところ最高の勳位を受賜され者であり,勳一位を受賜され,淪陷時にソ聯が俘虜にされて,中共に移送され,中共の獄中に病歿しました。原任滿洲帝國【治安部警務司長】、滿洲帝國協和會中央本部總務部長、滿洲映畫協會理事長甘粕正彥は,康德十二年八月二十日に滿洲全土の淪陷の當日に滿洲國爲に殉死しました。橋本虎之助と甘粕正彥は,滿洲國の日系の顯官の典範なり,且つみな一貫的に忠誠を滿洲帝國に盡くしました。橋本虎之助の墓、甘粕正彥の墓に,嗣後,凡そ滿洲國の官民が政務に因って日本を訪問してゐる時,みな之を參拜すべし。

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康德九十一年十月二十一日


康德九十一年十月二十一日 東京


今日に明治神宮を參拜して聖德紀念繪畫館を參觀しました。

今日の午前に,明治神宮の南神門の正參道に參入し,その道中,謹んで明治天皇の創業の艱難を思ひました。我が皇帝陛下は平素から敬て明治天皇の偉業を慕ひ,康德二年、康德七年の訪日に皆親しく明治神宮を拜みました。我は平素から大志有り,子供の頃から明治維新の大業の成功を追慕し,我が滿洲帝國復國の天業を仰贊して以來,ずっと親ら明治神宮、桃山陵を拜むことを希望し,以て親ら敬を明治天皇の天業に致す,今日には終に夙願を果たしました。林出賢次郞の記載によると,皇帝陛下が康德二年四月七日に明治神宮を參入して親しく拜禮を行ふ一瞬は,實に日本帝國の維新回天の大業を成就あらせられた明治天皇の御靈と五族協和の滿洲建國の皇帝陛下と之御對面であって,實に何とも言へぬ森嚴の氣が漲るを覺えました。今日に我は滿洲帝國の流亡中の全體の官民を代表して明治神宮を參拜することは,また親しく明治天皇へ敬て滿洲帝國復國の天業が正式に發足した六年以來の努力を告げました。

午後,我は聖德紀念繪畫館を參觀しました。我が皇帝陛下は康德二年四月七日に明治神宮を參拜した後,聖德紀念繪畫館を參觀しました。皇帝陛下は館內に諸日本畫より熱心に巡覽,明治大帝の治績を感慨深く偲ばせられました。此の聖德紀念繪畫館巡覽は全く感激の場面のみでありました。其の場面は澤山ありましたが,林出賢次郞はのみ其中のいくつかの場面を申し述べませう。明治元年三月十四日明治天皇が紫宸殿に出御、親王、公卿、諸侯を率ゐ親しく天神地祇を祀り、副總裁三條實美をして御誓文を讀ませになる五箇條御誓文の光景の繪に對して,皇帝陛下は“此は日本の精神である。”と御嘆聲を洩しにありました。又明治元年九月二十日車駕が京都を發し路を東海道に取り東京に向はせらるゝ途中、九月二十七日尾張の國熱田の驛の八町畷に御輿を止められた時の“農民收穫御覽”の場面を御覽になって,皇帝陛下は “君民一體である”と云ふ感想を洩しにありました。等等。最後に,“不豫”と題する明治四十五年七月老若男女が宮城正門の前に集り、遙に御座所を拜して明治天皇の平癒を祈りつゝある場面であり,皇上は此の場面に對し落淚されました。さうして“是國民至誠の表れである,是國民至誠の表れである。”と御獨言仰せられました。當時に陪侍してゐる有馬宮司は亦落淚されました。林出賢次郞は遂に堪へ難く,眼が曇り聲も嗄れて、充分の御通譯は出來ませんでした。一時に衆人は皆涕零したことは,頗る感激せしむ。聖德紀念繪畫館には合計八十點の繪畫が收藏されてゐます。今日は一つ一つの繪畫を時系列に沿ひてじっくりと觀覽しました。第七十九點の繪畫である“不豫”に至り時,我は丁度今親ら覽り明治天皇の一生の恢弘の聖德を思ひ,同時に深く皇帝陛下が康德二年四月七日に親しく聖德紀念繪畫館を巡覽してゐる時に種々感激せしむ聖行を念ひ,眼淚が止まらない,一つは、聖明天子があまりにも早く臣子を棄て、身後に僅か三十餘年の時に國家を蒙塵されことを嘆くことであり,二つは、日本帝國の臣民が君を尊ひ上に親む、天の如く地の如く、至誠國の爲めにせざるはなくことを感慨することである。

滿洲帝國皇帝は日本帝國天皇と精神一體の如く,滿洲帝國は日本帝國と精神一體の如く,滿洲國の建國の淵源は仰て天照大神の神庥、日本帝國天皇陛下の保佑に賴る,滿洲國は日露戰爭に發祥し、而して日露戰爭は明治天皇が發動した赫々の義戰である。總括する,我が皇帝陛下の康德二年及び康德七年の兩次の訪日に、國務總理大臣張景惠が謝恩特派大使を充派された康德九年の訪日には,すべて明治神宮を參拜することある。滿洲帝國復國の天業は謹んで復國の本義卽ちそのまゝ復國に遵ひ,故に嗣後凡そ滿洲國の官民は政務に因って日本を訪問し,みな明治神宮を參拜すべし。

聖德紀念繪畫館,雖も我が皇帝陛下が康德二年四月七日に一度のみ之を參觀し,しかし,滿洲帝國復國の天業の現下の世局の現實に基づき,聖德紀念繪畫館に展示されてゐる繪畫は,現在日本でヤルタ體制の汚染を未だ受けてゐない數少ない地點の一つです。故に,滿洲國の官民の訪日者は一生に一度は聖德紀念繪畫館を參觀することを建議します。

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康德九十一年十月二十二日


康德九十一年十月二十二日 京都


本日の午前六時に,我は東京から新幹線に乘って京都へ行き,午前八時頃京都驛に到着しました。

本日の午前に,我は京都御所及び京都大宮御所を參觀しました。

京都御所は,日本桓武天皇の延曆年間に平安京に建都時から明治二年に明治天皇の行幸東京時まで,常に日本天皇の大內である正寢でありました。京都御所の宮殿や宮門等は,多く漢唐によく常用の名と之を命名した——多くの例があります:例えば,承明門,其の名は明らかに秦漢宮制に由來するものである;紫宸殿,其の名は唐長安大明宮と唐洛陽宮城の紫宸殿に由來するものである。康德二年四月十七日,皇帝陛下は京都御所を參觀しました。

京都大宮御所は,また京都仙洞御所と稱へる。日本に,太皇太后、皇太后が居住する宮室は,大宮御所と稱へ,太上天皇、太上皇后が居住する宮室は,仙洞御所と稱へる。京都大宮御所/京都仙洞御所は,日本が京都を以て首都だった時の大宮御所兼仙洞御所です。日本明治二年に明治天皇の東京行幸以後,京都大宮御所は日本皇室が京都に滯在する時に居所なる。京都迎賓館の建設が完成した以前,京都大宮御所はまた外國元首が京都に訪問する時に居所である。康德七年七月二日から七月五日まで,康德皇帝は京都大宮御所に駐蹕してゐました。

午後,我は二條城を參觀しました。二條城は德川幕府時代に幕府將軍が上洛時も京都に居所であり,華麗な且つ堅固な居城である。明治維新時に,日本皇室は德川將軍家から二條城を接收し,明治十七年に日本帝國天皇の二條離宮なりました。康德二年四月十八日,皇帝陛下が二條城を參觀した時,二條城はなほ二條離宮であり,日本帝國天皇の離宮でありました。二條城は日本昭和十四年、十五年間に昭和天皇によって勅旨を以て公衆に之を賜ひ,それ以來離宮の地位を失去しました。

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康德九十一年十月二十三日


康德九十一年十月二十三日 京都


本日の午前八時四十分頃,我は桃山陵、桃山東陵を參拜しました。

明治天皇の桃山陵は,高山の上に位置してゐる。登って參拜して,正參道に循ひて上る場合,少し切り立った大階段を登る必要があります。此の設計は,明治天皇の聖德が至高して「高山仰止景行行止」せしむる大義を體現する爲に除く,また山陵を恭しく拜む明治天皇の子孫及び臣民等其の他の一切の參拜者が階段を登り時に明治天皇の創業の艱難を體得されることができる至意爲にしました。十月二十一日の訪日日誌で,明治天皇の聖德については謹んで述べたので,故に,本日の訪日日誌では,明治天皇の聖德について詳しく述べることはしません。此回に桃山陵を親しく拜み,我はまた常に敬て明治天皇の聖德を思ひました。

桃山陵を參拜した後,我は東に向かひ昭憲皇太后の桃山東陵を參拜しました。昭憲皇太后は日本左大臣一條忠香の第三女であり,明治天皇の皇后であり,大正天皇の嫡母である。昭憲皇太后は慶應三年に明治天皇に嫁ぎ女御となり,明治元年に皇后として冊封されました。昭憲皇太后は明治天皇を作配して,皇后として時に明治天皇及び英照皇太后(明治天皇の嫡母)を侍奉し,克く皇后の責を盡くし,紡織業の生產を促進せしむ;明治維新が西化の巨風を開啓した後,洋服の穿著を率先躬行し,女性の服飾の西化を引率し;明治維新により日本帝國は文明國家となった後,元首の妻として,會て外國友人を見り,日本帝國の文明開化の國風を顯揚し;更に女子敎育を促進せしむ、日本赤十字社の建立及び發展を促進せしむ、日本の文學藝術を顯揚すること等德行ある。明治天皇の乾德は光耀であり,昭憲皇太后の坤德は輝を翊ける,我等は深く之を體すべし。

滿洲帝國皇帝と日本帝國天皇は精神を一體の如く,滿洲帝國と日本帝國は精神を一體の如く,滿洲國の建國の淵源は仰て天照大神の神庥、日本帝國天皇陛下の保佑に賴り,故に,我が皇帝陛下の康德七年訪日、張景惠國務總理大臣が謝恩特派大使を充派され康德九年訪日は,みな神國日本の開國の天皇卽ち神武天皇の山陵、日本帝國列聖列后の山陵を參拜しました。滿洲帝國復國の天業は謹んで復國の本義卽ちそのまゝ復國に遵ひ,故に嗣後凡そ滿洲國の官民は政務に因って日本を訪問し,みな神武、明治、大正、昭和の四代の天皇及び皇后の山陵を參拜すべし。

午後,我は金閣寺を參觀しました。京都の金閣寺は京都の銀閣寺、北京の潭柘寺、奈良の東大寺等の寺廟と同樣に,みな單なる俗稱であり而して正稱ではありません。金閣寺の正稱は北山鹿苑禪寺であり,卽ち鹿苑寺であり,日本佛敎臨濟宗相國寺派の寺院であり,其の舍利殿の外に金箔が施されてゐることから遂に一つの名景と成り,そのため金閣寺という俗稱が生まれました。

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康德九十一年十月二十四日


康德九十一年十月二十四日 奈良


今日の午前八時頃,我は京都から奈良へ行き,午前九時三十分頃に近鐵奈良驛に到着しました。

列車が奈良市に進入すると,近鐵線は平城宮跡を經過しました。平城宮は平城京の大內裏であり,唐の長安城に倣って建てられ,近鐵列車の進行方向右側の窗から外を眺めると,第一次の復元後の大極殿を見えることができる。宮城の正殿は太極殿/大極殿と呼ばれ,曹魏に創制され,李唐まで續きました。日本の平城京の大內裏は亦之を施行しました。

下車後,先ずは春日大社へ參拜することに行きました。康德二年四月二十日に皇帝陛下は奈良春日大社を參拜しました。春日大社と嚴島神社は皇帝陛下が國本を惟神の道に奠めること前に靖國神社に除く唯二の參拜した神社であり,これはみな第一回の訪日の過程中に發生しました。春日大社へ向かふ途中,奈良の街中に三頭か兩頭ずつの大きな鹿の群れが點在してゐるのを目にしました。春日大社に近づくにつれて,鹿の數も增えてゐきました。春日大社の參道を步いてゐると,大量の支那人がさまざまな醜態をしてゐるのを目にしました。支那人は奈良文化に於ける鹿の重要性を氣にせず、樂しみのために鹿に餌をあげます。支那人は鹿を追ひかけ,鹿は支那人を追ひかけました。これは狼や豚が奔り突く大混亂の光景でした。更に支那人は御手水が新奇だと感じ,寫眞を競って撮る支那人もゐた,神社に尊重する行爲も,更に外國の文化を學習する意圖も全くありません。春日大社で支那人と鹿を見て、我の気持ちを表現するために、一言だけ述べたいと思います:「豕鹿が廟堂の階の下に奔突しています。これは誠に乱世の象なり。」口語文で「豚と鹿がの廟堂の階段の下を駆け抜けるのは、まさに混乱な時代の兆候です。」

午後,我は東大寺を參觀しました。康德二年四月二十日に皇帝陛下は東大寺を參觀し,興味津々,隨員と談笑しました。東大寺は日本佛敎華嚴宗の大本山であり,本尊は盧捨那佛である。東大寺を參觀した後,我は眞っ直ぐ北へ向かひ正倉院へ向かひました。正倉院は獨特な木造建築物であり,聖武天皇と光明皇后の寶物を保存するために使はれ,日本帝國の時に皇室財產であり,宮內省の管轄下にあり,日本帝國天皇の勅旨によってのみ外人に展出される。康德二年四月十九日,昭和天皇の勅旨を欽奉し,正倉院は我が皇帝陛下へ開放され,皇帝陛下御覽のためました。皇帝陛下は頗る興致有り,多く詳細にこれを見り,收藏された多くの寶物のところに感嘆し,更に側近のものに對し「斯くも千年以上の御物が完全に保存されて居ると云ふ事は詰り日本國體の然らしむるところであって,國民の皇室に對する尊崇の念が良く現れて居る。日本國民の皇室に對する忠節の念の厚い事は實に感心の到りである。」と申されました。而して今日,正倉院は少し荒廢してゐるように見えます。戰後の日本國憲法により此處は國有化され,寶物はまたみな奈良國立博物館(日本帝國の時に奈良帝室博物館)に移轉されました。現在,正倉院には空き建築物が残ってゐるだけで,そこには高齡で衰弱した日本宮内庁の職員が三、二人勤務してゐるだけだ。

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康德九十一年十月二十五日





康德九十一年十月二十五日 伊勢


今日は晴れ空が萬里まで續く,正しく伊勢へ行きて皇大神宮を參拜する佳期です。

午前八點三十分頃,我は近鐵奈良驛から出發し,伊勢市に向かひ,午前十時三十分頃,伊勢市驛を到着しました。伊勢市には晴れて風無く,又良い天氣です。

我が皇帝陛下は康德七年の訪日の時に親しく豐受大神宮、皇大神宮を拜み,回鑾後,同年七月十五日に新京帝宮に於けて建國神廟を創建し,建國元神として天照大神を奉祀し,また『國本奠定詔書』を渙發し,我國の國本を惟神之道に奠めました。それから,我國は國本が奠定され,國體が完遂されました。

今日,我が皇大神宮の參道に參入した時に心の中で畏くも思ふところ者は,のみ我國の建國元神である天照大神の最高至貴の御神格竝に六合に照徹する御神德、我が帝祖である康德皇帝が親しく皇大神宮を拜みて建國神廟を創建して國本を惟神の道に奠定した至德天功である。どうしてかは分かりませんが,今日に乘車からずっと肩に重荷がのしかかってゐるような氣がしました。誠に天照大神を參拜する無上の敬畏の心によるものです。皇大神宮の參道に到着して參入すると,一步一步がみな重くなります。我が大政を攝行してゐることまで已に六年であり,これはまた第一回の訪日と皇大神宮を參拜することであり,なぜなら復國の重荷が時々我の肩に係ってをり,また天照大神を參拜するの無上の莊嚴の瞬間だからであると思ふ,とても緊張せずにはいられませんでした。我は皇大神宮の正宮まで行き,恭しく正宮の外玉垣南御門前の參道の正中に列ぶ。外玉垣南御門は皇大神宮の正宮の正門である,其門には一つの布簾を設え,正中に掛かって,丁度參拜者の正宮への視線を遮ってゐるだけだ。我は外玉垣南御門前の參道の正中に肅み立ちて參拜することを待ってゐた時,突風が吹いた,突然目の前の布簾を丁度良い吹き飛ばし,これにより,我は直に外玉垣南御門內の中庭の情景を觀覽することができました。此突風が吹いて布簾が上がると,周りの參拜者達は皆驚いてささやきました。布簾が空中に寸刻に舞い,而して頃刻に我が拜禮を行ふようとしたその時,風が静まり,布簾は原の直ぐな状態に戻りました。皇大神宮參拜の前,豐受大神宮で親しく拜禮を行ひてゐた時,また突然カラスの群れが我の頭上を旋回し,大きな聲で鳴きました。そのとき我はそれを感じ,とても嬉しかったです。カラスは我が蒙滿一地に我が皇家の吉祥の鳥であり,なぜなら曾て我が滿蒙の皇祖皇宗を絕滅の大難から救ったからです。同時,カラスは神國日本に,まら日本の皇家の吉祥の鳥であり,なぜなら八咫烏は曾て神武東征の際に熊野國から大和國まで神武天皇を導いた。カラスが現れたことは今回が唯一の出来事ではない,滿洲帝國復國の天業が正式に發足した以來,その總數は數へ切れないほど多い,今回の訪日でも,今日は初めてではない,これ以前凡そ我が參拜した際,また已に何度かこのようなことがあり,今日は豊受大神宮でこんなことがあったからこそ,特に注目して訪日日誌に記録したのです。當時,日本友人は「これは八咫烏が滿洲帝國の復國を導い」と言ひ,今日の伊勢神宮で出来事を稱贊しました。

皇大神宮を參拜した後,我は肩から重荷を下ろしたかのようであり,しかし憂ひがないわけではない。肩から重荷を下ろしたかのようであることは,なぜなら皇大神宮參拜が今回の訪日で最も重要な參拜であり、我に一生中に第一回の我が滿洲國の建國元神である天照大神を參拜することであり,此の參拜が完成された我の宿願が克く遂げました。また憂ひがないわけではないことは,なぜなら我が政を攝する臣として大政を攝行して任務が至大であり、責任が至重であり,我が建國元神を參拜することが我に幾分安らぎを感じせしみ,同時に我がまた深く任務の大と責任の重を感じ,故に我が憂を忘れない,むしろ自身の使命の理解を深め,以て更に堅定に身を滿洲帝國復國事業に投じます。

滿洲國の建國の淵源は惟神の道に發し,仰て天照大神の神庥、日本帝國天皇陛下の保佑に賴る。故に,我が皇帝陛下の康德七年訪日、張景惠國務總理大臣が謝恩特派大使を充派され康德九年訪日は,みな伊勢神宮を參拜しました。伊勢神宮は內宮卽ち皇大神宮と外宮卽ち豐受大神宮から構成されてゐます。傳統に依り,伊勢神宮を參拜してゐる時に,みな先は豐受大神宮を參拜し、その後皇大神宮を參拜すべし。滿洲帝國復國の天業は謹んで復國の本義卽ちそのまゝ復國に遵ひ,故に嗣後凡そ滿洲國の官民は政務に因って日本を訪問し,みな伊勢神宮(內宮及び外宮を含む)を參拜すべし,以て建國元神卽ち天照大神に對する無窮の崇敬を表す。

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康德九十一年十月二十六日


康德九十一年十月二十六日 橿原


今日の午前九時,我は奈良市から橿原市に向かひました。

我が皇帝陛下は康德七年の訪日の時に親しく橿原神宮、畝傍山東北陵を拜み,回鑾後,同年七月十五日に建國神廟を創建して天照大神を奉祀し、『國本奠定詔書』を渙發して國本を惟神の道に奠めました。それ以來,我國は國本が奠定され、國體が完遂されました。

我は橿原神宮前驛を出て,驛前の正中の通を向かひ,直に橿原神宮の南參道に着きました。道を步きながら,我は神武天皇東征をして神國日本を創建する聖業を追思してゐました。我は昨晚も『神武天皇紀』を復習し,以てより良い神武天皇の神國日本創建の大德を銘記しました。神武天皇は天命を奉じて東征し,神國日本を建立し,それから,詔するに日本肇國の本義を以てす,其の旨や深す。神武天皇の東征は,順を以て逆に討つことであり,卽ち順天を以て逆天を討つことである。不順者は,先づ諄々と天理を說き聽かせて,猶ほ反抗せる場合はやむなく皇師を以て之を討伐せられました。神武東征は,ことわざにあるように,「德を以て人々を服せる」(「德によって人々を征服する」)ことを意味します。神武東征の過程は,八紘一宇の大精神の初めての顯現である。神武天皇は卽位前,『橿原奠都の詔』(明治維新後は『八紘一宇の詔』とも呼ばれる)を下し,初めて八紘一宇の大精神を闡述しました。神武天皇は卽位後,また詔を下し初めて祭政一致の大精神を闡述しました。神武天皇は神國日本の開國の祖、人皇第一代として,東征を以て大和平定に由って江山を定鼎しただけでなく,詔書を以て初めて日本の肇國の精神を確立しました。神國日本の列聖を功德の順に並べると,當然第一者は神武天皇,當然第二者は明治天皇となる。

我は橿原神宮の南神門から入り,橿原神宮を參拜し,參拜完成後,北神門から出り,畝傍山東北陵に步いて之を參拜してゐました。畝傍山東北陵に步いて向かふ途中道路標識で近くに航空母艦瑞鶴の碑、第十三期海軍甲種飛行預科練習生殉國の碑があることを知りました。兩者はみな日本海軍の殉國者を紀念する碑です。我は仔細に其の事跡を觀覽した後、通りかかったついでにそこを參拜しました。

畝傍山東北陵の參道の起點に着いた時,突然激しい雨が降り始めたので,我は傘持ち參道により畝傍山東北陵を參入してゐることを續けました。この時我は今日の畝傍山東北陵の參拜が無事に終はるか心配で仕方がなかった。これまでの全部の參拜では一度も雨が降ったことがなかった。畝傍山東北陵前に着いたとき,雨はまだ止んでいませんでした。途方に暮れていたところ,突然雨が止みました。我は直ぐに傘をたたんで近くの軒下に置き,御手水場まで步いて手と口を淸め,その後陵前まで步いて拜禮を行ひました。やがて,參拜の禮が成った,雨は一瞬で止んだ,日光は戻ってくる。日本友人は當時に大いに滿洲國と我を賞贊し,此の數日に我が見た所の跡が天運が示し所であるとみなしてゐる,平素から滿洲帝國復國の道路が仰て神庥を承け、天命を順應する正道であると信じてきたことを重ねて言明しました。且つ我は本日の橿原市の參拜の行程に於けて,道が分かれるたびにカラスが頭上を旋回して鳴き,進むべき道を示してくれました。此は誠に天照大神の神庥、神武天皇の護佑に賴りました。

我は橿原市で晝食をとった後,列車に乘り奈良に戻り,心の中に日本神武天皇が神國日本を創建した竝に我が大行皇帝が滿洲帝國を創建した聖德神功を追思しました。神武天皇は神國日本の開國の天子であり,康德皇帝は滿洲帝國の開國の天子である。而して神國日本の現代的顯現は日本帝國であり,したがって,日本帝國は公式に始終神武天皇を以て開國天子とする。滿洲帝國皇帝と日本帝國天皇は精神一體の如き,滿洲帝國と日本帝國は精神一體の如き,滿洲帝國の開國皇帝である康德皇帝は當然日本帝國の開國の天皇である神武天皇と精神一體の如く。我が康德皇帝に相當する日本帝國天皇は決して明治天皇ではなく、神武天皇であったことを、私たちは皆知ってをく必要がある。此は康德皇帝の親信林出賢次郞が皇帝陛下を扈從し康德二年の訪日の時に四月三日に神武天皇祭の時に康德皇帝が神武天皇へ行禮してゐる時に目にした實感であり,我輩が先人に對して敢へて厚誣するわけではありません。

滿洲國の建國の淵源は惟神の道に發し,仰て天照大神の神庥、日本帝國天皇陛下の保佑に賴る。故に,我が皇帝陛下の康德七年訪日、張景惠國務總理大臣が謝恩特派大使を充派され康德九年訪日は,みな橿原神宮、畝傍山東北陵を參拜しました。滿洲帝國復國の天業は謹んで復國の本義卽ちそのまゝ復國に遵ひ,故に嗣後凡そ滿洲國の官民は政務に因って日本を訪問し,みな橿原神宮、畝傍山東北陵を參拜すべし,以て日本帝國の開國天皇卽ち神武天皇に對する無窮の崇敬を表す。

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康德九十一年十月二十七日


康德九十一年十月二十七日 奈良-大阪


今日の午前に,我は奈良國立博物館を參觀しました。奈良國立博物館は卽ち日本帝國の原奈良帝室博物館でありました。我が皇帝陛下は康德二年四月二十日に,曾て玉步が親ら奈良帝室博物館に臨しました。皇帝陛下の駕が臨してゐる時に,奈良帝室博物館には建物である今日の佛相館が一つだけ有りました。

皇帝陛下は康德二年の訪日の旅程中に親ら奈良帝室博物館に臨してゐる時に,興味が頗る高い,館內の第一室で法輪寺觀音立像及び日本の推古と天平兩時代の佛像、第二室で日本の貞觀と藤原兩時代の雕刻、更に第三室で日本の鐮倉時代の雕刻等を注意深く觀覽しました。皇帝陛下は佛學に對する造詣が頗る深いので,故に一目で眞髓を體察することができました。

我は最初に佛像館を參觀しました。佛像館內に見る者ところは,皇帝陛下が來訪時に見た者ところと略同じである。奈良國立博物館は戰後に展館を新建し,以て戰後に博物館が新たに收藏した文物を展出しました。新展館では現在毎年この時期に正倉院展が開催されてゐます。十月二十四日に我は已に正倉院へ行き,已に正倉院の全部の寶物が早くも戰後初期に奈良國立博物館に轉移して收藏されたことを言及しました。奈良國立博物館では每年十月下旬から十一月上旬にかけて正倉院展を開催し,新館舍では正倉院の一部の寶物を特別に展覽してゐます。我は佛像館を參觀した後、正倉院展を參觀しました。正倉院の保存狀態の完好の寶物をこの目で見た時,我は十月二十四日に已に述べた我が康德皇帝が康德二年四月十九日に正倉院を參觀してゐる時に 「斯くも千年以上の御物が完全に保存されて居ると云ふ事は詰り日本國體の然らしむるところであって,國民の皇室に對する尊崇の念が良く現れて居る。日本國民の皇室に對する忠節の念の厚い事は實に感心の到りである。」と玉言を回想さずにはいられませんでした。亞洲大陸は數千年もの間戰火がつづいてをり,古文物を保存することが難いですが,而して日本は千年以上にわたって古文物を完全に保存してゐるのは,眞に唯一無二で,確實に之を觀止として贊嘆させました。而して其の原因は,皇帝陛下が示したところ「日本國體の然らしむるところであって,國民の皇室に對する尊崇の念が良く現れて居る。」皇帝陛下は此に深く感動されました。これは正に皇帝陛下が『囘鑾訓民詔書』に訓ふるところ:「茲ニ幸ニ親シク誠悃ヲ致シ,復タ意ヲ加ヘテ觀察シ,其ノ政本ノ立ツトコロ,仁愛ニ在リ,敎本ノ重ンスルトコロ,忠孝ニ在リ,民心ノ君ヲ尊ヒ上ニ親ム,天ノ如ク地ノ如ク,忠勇公ニ奉シ,誠意國ノ爲メニセサルハナシ,故ニ能ク內ヲ安ンシ外ヲ攘ヒ,信ヲ講シ鄰ヲ恤レミ,以テ萬世一系ノ皇統ヲ維持スルコトヲ知レリ。朕今躬カラ其ノ上下ニ接シ,咸ナ至誠ヲ以テ相結ヒ,氣同シク道合シ,依賴渝ラス」と合ふ。皇帝陛下は正に日本帝國の臣民が皇室に對する無窮の尊崇、天子が臣民に對する無比の熱愛という君民一體の大精神を御存知であるからこそ,明確に滿洲帝國皇帝と日本帝國天皇が精神一體の如く、滿日兩帝國が精神一體の如くことを昭示したのである,滿洲帝國と日本帝國の間の一德一心不可分の特殊な關係を更に强固せしむ,以て滿日兩帝國の永久の基礎を奠定して東亞道德の眞義を發揚しました。

正倉院の寶物を觀覽してゐる時,皇帝陛下の玉言聖訓及に『囘鑾訓民詔書』の煌々大詔を思ひ出すことを除く,我は日本の文物と史學に就いても別の感受を抱ひてゐます:それはこの世界で眞正に歷史學あるところはのみ歐洲、北米と日本の三つである。なぜでしょうか?なぜなら歷史學は一つの物質的基礎があるからです,すなわち大量の一次歷史的資料です。そしてこれが實現できれば,あらゆる各種の實物史料を完全に保存することが必要になります。これを實現できるものは全球の範圍の內に全て鳳毛麟角であり,歐洲、北米と日本だけが實現してゐます。ここで、この段落の文脈に於ける北米という用語が何を意味するのかを指摘することも必要です。この北米とは,北米に於ける唯一の眞正の文明卽ち歐洲文明を指してをり,第二次世界大戰終結以來北米の各層の政府によって公式に承認されてきた「文明」、「文化」、「原住民」という重大な欠陷のある槪念とは何の關係もありません。正倉院の寶物の中に,多く日本の古代の宮廷の檔案、朝廷の公文等有る。この古代の宮廷の檔案、朝廷の公文の原件の大規模かつ完全に保存されたことを所有することは實に極めて稀です。支那を振り返ってみると,古代史を硏究するには正確的な探偵力が必要であり,なぜなら一次歷史的資料が比較的少ない,正確の結論に到達するには仔細な分析と推理が必要です。而してこのような硏究方式は,正常の歷史學の硏究方式ではありません。日本に着いた時に言ひしたように,日本帝國は滿洲帝國の親邦であり,雖も今日の日本國は日本帝國ほどではありませんが,それでも滿洲帝國の最も親密な友邦です。現在の滿日關係の親近の程度は,雖も滿日兩帝國の親邦の關係ほどよくはない,しかしなほ滿洲國が世界の其の他の諸國と開展することのできる邦交よりまだはるかに優れてゐる。我々は,今日の日本國が,日本の肇國の精神と日本帝國の國體に對する破棄したことに由って,精神の領域及び政治制度の領域に於いて我が滿洲帝國の導師となることができませんであり,しかし,其の他の領域では,現在の日本國は,滿洲國の建國の精神に違反しない前提の下,なほ滿洲國人の首要の導師となすべしことを深刻に體得すべし。滿洲國と日本は共に東亞に屬してをり,滿蒙と日本のこの兩地は古代に亦顯著な聯係有る。日本には大量の完全の保存された一次歷史的資料を保有しますので,正確に學習すれば,きっと多くのものが得られるでしょう。

午後,我はJR列車に乘って大阪へ行きました。大阪へ向かふ途中,改めて日本の鐵道交通の驚くべき利便性と效率性を深く體會しました。JRの自動券賣機はとてもスマートで,大和路快速の列車に乘って天王寺驛まで行き、そこから特急はるかに乘り換へて新大阪驛まで行くという最快と最短徑路を直に敎へてくれました。天王寺驛の乘り換へ時間はのみ合計で約兩分と顯示されてゐました。雖も乘り換へに失敗する風險は感じましたが,それでも試してみたいと思ひました。この旅程の結果には意外に嬉しい驚きを感じました。乘ってゐた大和路快速の列車が天王寺驛に近づくと,左の線路に明らかに一本の特急と思はれる電動列車がやってき,とてもハイテクに見へます。我はこれを詳しく觀察してゐるとき,これが我が乘り換へようとしてゐる特急はるかであることを發現しました。そんなことを思量してゐたら,乘ってゐた大和路快速の列車が天王寺驛のホームに入ってきた,丁度列車を降りて,乘り換へる特急はるかを探してゐたのですが,丁度その本の特急はるかの列車が同じホームの反對側に入ってきました。我は飛ぶように速くホームの表示を查看して,この本の特急はるかが乘り換へるべきその本かどうかを確認しました。我が表示を見てゐる間にも,この特急はるかが已に停車しドアを開けて旅客が乘降できるようになってゐました。我が飛ぶように速く考へたことを經り後,この特急はるか列車は乘り換へるべきその本だと判斷しました。特急はるかは停車時間が非常に短いので,ホームから自分の座席のある車輛のドアまで步いて乘り込むのは乘り遅れるがあるので,急いで一番近いドアから列車に飛び乘りました。特急はるか列車の車內で自分の座席がある車輛まで步いたが,着く前に,列車は已に發車してしまった。席に坐定後,丁度過去二三分に起こった一切のことを思ひ返したとき,我は心の中で日本の鐵道の效率は世界一だと贊嘆せずにはいられませんでした。想像してみてください。このような兩三分しかかからない二本の列車の接續は恐らく他の國や地域の鐵道旅客輸送計畫にも設えてゐないでしょう。假にこれを設えられたとしても,鐵道事業者は敢へてこのような切符を販賣するだろうか?奈良驛から新大阪驛までの旅程で乘った兩本の列車はともJR西日本のものでした。JR西日本は,運行時刻、ホーム、到着順に關係などに就いて兩本列車が完璧に接續されるように手配することができました。その背後にある功夫を見れますよ!

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康德九十一年十月二十八日


康德九十一年十月二十八日 大阪-宮島-廣島-東京


今日の午前八時に,我は新大阪驛から新幹線、山陽本線に乘って宮島に向かへました。

康德二年四月二十四日,皇帝陛下は御召艦比叡號を乘って回鑾の途中に宮島に泊まり,上陸して嚴島神社を參拜しました。我が皇帝陛下は老松と石燈籠の立ち並ぶ參道から行へて嚴島神社東廻廊入口に着き,丹塗の廻廊を本殿へ參入し,玉串を奉奠遊ばされました。皇帝陛下は嚴島神社の自然美と人工美の混一した情景に感興深く感じられつゝ。皇帝陛下の嚴島神社參拜竝びに宮島に徒步なされたゝめに發汗遊ばされた結果にや,風氣は全快になり,龍心は大きな悅にある。それから,同日の午後四時,皇帝陛下は御召艦の御居室に日本側接伴員の中で第一位である日本樞密顧問官男爵林權助を召になり,茶菓を賜ひ,歡談遊ばされ,最初に第一回訪日の感想を總括しました。皇帝陛下の茲に訪日感想に關する下の通訓示をされました:其の第一の部分は『囘鑾訓民詔書』の大義を互いに同じ,其の第二の部分は詳細に日本帝國皇室が我が皇帝陛下に對する懇切相待であることを感謝しました。この第二の部分の中に,皇帝陛下は日本帝國天皇皇后兩陛下の熱情の招待に感謝することを除く,更に特別に大々的に極く眞切に十分に詳細に貞明皇后と特殊な母子の情緣を回溯しました。

今日の午前十一時頃,我は東廻廊から嚴島神社を參入し,懷くある素來の敬神忠君の心を持ち,でも懷くある新鮮の美景を贊賞する意を持つ。嚴島神社の丹塗廻廊と嚴島神社の海に面し山々を背にした自然の景觀は樣々な光や色彩が照り映へ,とても特に興味深いです。これは正に皇帝陛下が見りところ嚴島神社の人工美と自然美の混一した情景を合ふ。嚴島神社を參拜した後,午後に我は快船を乘って廣島平和公園に向かへました。廣島平和公園のような明らかな完全に黑白を顚倒する戰後ヤルタ體系に基づゐた「妄想の和平の美夢」という愚劣な思想を對面して,我は三句もってこれを評ふ:

第一句:米國の原子爆彈は間違った人々に落とされた。

第二句:第一句の基礎の上,日本と英美等國とのの間の戰爭は戰ふべきではなかったし,而して兩側ともこの戰に對して略同等の程度の責任を負ひてゐる — — したがって一方が一方的に戰ふべきではなかったということではなく,雙方が戰ふべきではなかったということである。

第三句:眞正の禍根は共匪であり,共匪を滅ぼしないなら、どうやって和平について語ることができるでしょうか?滅ぼしなかっただけでなく,過去略八十年で更に强大になりました。ナチスと共匪を滅ぼして日滿兩帝國が主導した東亞新秩序を樹立することによってのみ,世界の永久の和平を初めて期待できる。まず、自由世界が全力に滿洲帝國流亡政府を援助し、以て滿洲國復國の聖業を支持することが必要である。

廣島平和公園の如何なる寓意にかかはらず,ほとんどの參觀者は以上の三句という思想に達することができません。而して以上の三句という思想は,原爆を紀念して、更に第二次世界大戰を紀念する眞正の意義にありところです。この道理を學ばなければ,私たちはのみ共匪の日々肆虐の中で人々死ね繼續して — — 共匪は必ず敗り,正道は必ず勝つ,しかし唯一の區別があります:もし自由世界がこの道理を早く學び、滿洲帝國流亡政府を早く援助すれば、死ぬ人は少なくなるだろう,而してこの道理を遅く學び、滿洲帝國流亡政府を遅く援助すれば、死ぬ人は多なくなるだろう。

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康德九十一年十月二十九日、十月三十日

靖國神社


康德九十一年十月二十九日 東京


本日午前,我と日本友人は靖國神社を參拜し,滿洲國及び日本爲に犧牲した戰歿勇士の英靈を追憶しました。我等は靖國神社第一鳥居から參入し,英靈に拜禮を行ひ,神前に默禱しました。

これから午後四時まで,我は日本友人と若干の問題に就いて深く意見交換し,滿洲帝國復國の事業の日本に未來の發展に就いて若干の事務に就いて會話することを行ひました。


康德九十一年十月三十日 東京


今日の午前に我は日本友人達と會談しました。

我は初めて本次の訪日の旅程を講述し,特に多摩陵、多摩東陵、武藏野陵、武藏野東陵を參拜する過程を强調し,滿洲帝國と日本帝國が精神一體の如く、滿日兩帝國の兩皇室が精神一體の如く大義を闡述しました。在場の各位は動容せざるはなし。

その後,我は日本友人達と我が滿洲帝國皇室と現在の日本皇室に就いて若干の事情に就いて深く談話しました。

今日の午後は我の休養時間です。

康德九十一年十月三十一日

康德九十一年十月三十一日 東京


今日は我の本回の訪日の日程に最後の日です。今日の全日は我の休養時間です。

康德九十一年十月十四日から十月三十一日までの全部の十八日の訪日の旅程は,此日まで完結しました。今回の訪日には,我が滿洲帝國は頗る多く收穫しました。

今回我は政を攝する臣、國務總理大臣として,滿洲帝國流亡政府を統括代表して日本を訪問しました。此行の目的は三つありました:
第一には,康德八十七年に滿洲帝國流亡政府が完全に樹立した際、滿洲帝國流亡政府は武漢肺炎の瘟疫が全球に流行してゐる情況に基づき日本に二萬枚の醫用マスクを寄贈し,此のマスク寄贈行動に於いて滿洲帝國流亡政府は日本友人達から巨大な幫助を受け,雙方は良好な關係を建立し;今回我の訪日は,先ず日本友人達が康德八十七年以來不斷不易の仗義援助を感謝して、滿洲帝國流亡政府と日本友人達の相互の間の理解を增進する爲に,以て滿日兩國の關係現段階での成果を鞏固しました。
第二には,康德八十五年四月に滿洲帝國復國運動が正式に發足した以來,滿洲帝國流亡政府の全體の同仁及び協和會の全體の同志はみな滿洲帝國流亡政府が一日も早く日本を訪問できることを希望する宿願有り;我の今回の訪日は,また我等の全體の同仁と同志の宿願を實現する爲にしました。
第三には,滿洲帝國復國の事業は終始一貫に復國の本義卽ちそのまゝ復國に基づいて之を行ふ;我が今回の訪日に,謹んで成憲に遵ひ,親しく皇大神宮、橿原神宮、明治神宮を拜み,親しく神武、明治、大正、昭和の四代天皇の山陵を拜み,親しく靖國神社を拜み,又我が大行皇帝曾て親しく至り禁地又は現在に存らず地を除く其の他の全部の地點に親しく拜み又は瞻仰したことは,親身にそのまゝ復國の大義の範を示しなりました。

康德九十一年十月十四日から十月三十一日まで全部の十八日の訪日の旅程の中に,上記の全部の三つの目的はみな已に完成されました。今回の訪日は大成功でしました。

國務總理大臣としての我の康德九十一年に日本訪問は,滿洲國の國務總理大臣としては七十九年ぶりの日本訪問であり,滿洲帝國復國の事業、滿日兩國の關係の恢復にとして畫期的な重要な意義を持つものでしました。我の今回の訪日の前一回の滿洲國の國務總理大臣の訪日は,康德十二年四月に國務總理大臣張景惠が皇帝陛下の旨に奉じ皇帝陛下の親書に奉じて日本を訪問して、以て滿洲帝國康德皇帝の第一次の訪日の十周年を紀念しました。今年康德九十二年は,滿洲帝國康德皇帝の第一次の訪日の九十周年です。滿洲帝國流亡政府は已に旣定の計畫通り滿洲帝國康德皇帝の第一次の訪日の九十周年を紀念する宣傳を開展してゐました。而して我の今回の訪日に關する宣傳は,滿洲帝國康德皇帝の第一次の訪日の九十周年を紀念する宣傳の重要な部分です。

滿日兩國の關係の恢復は,今回の訪日の中に堅實の一步を踏み出しました。我々は復國の本義卽ちそのまゝ復國に基づくことを繼續して懈らない滿洲帝國復國の天業を推進することを繼續して、力を滿日兩國の關係の恢復に努めることを繼續します。

滿洲國の建國の淵源は惟神の道に發され,天照大神の神庥と日本帝國天皇陛下の保佑に仰て賴る。滿洲國の建國は仰て天命を奉じて,したがって滿洲帝國の復國は天命を遵奉する者である。今回の訪日の旅程の中に,天跡は昭然である。凡そ我が國民は,其れ仰て之を察すべし!

康德九十一年十月三十日に我が今回の訪日の中に面會する必要があった最後の一つの日本友人と面會してゐる時,該日本友人は我に初めて面會しましたが,熱情に迎送しましただけでなく,面會の初めに、又何時日本を訪問するか頗る切に我を問ふてくれました。言辭は懇切だった,十分に感動しました。日本帝國の精神的な臣民は,我國が當面に滿日兩國關係に於ける主要な盟友であり,我國が滿日兩國關係に於ける永遠の中核の盟友である。我國の全體の復國志士は日本帝國の精神的な臣民と協力して,滿洲帝國復國と日本復興という偉大な事業を不斷に推し進めて行くことを望む!

薩裏達克氏阿斯蘭

康德九十二年三月十五日

加奈陀に於ける

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