大正天皇多摩陵
貞明皇后多摩東陵
昭和天皇武藏野陵
香淳皇后武藏野東陵
甘粕正彥の墓
東鄕平八郞に賜り御誄
兒玉源太郞の墓
黑木為楨の墓
橋本虎之助の墓
本莊繁の墓
本莊繁の遺書
康德九十一年十月二十日 東京
今日の正午,我は親しく多摩陵、多摩東陵、武藏野陵、武藏野東陵を拜みました。
多摩陵、多摩東陵、武藏野陵、武藏野東陵の聖域に足を踏み入れたとき,聖行が至高であると感じ,特に神鎭を望見した瞬間に,のみ聖德に對する限りない景仰とじました。
我は表參道を步いて多摩陵に向かひましたが,神鎭を望見した瞬間,我は思はず立ち止まって,長い間神鎭を瞻仰し,心中にただ思ふの者は大正天皇の聖德である。大正天皇は仰て明治天皇の基業を承り,歐戰での日本帝國の勝利の良機に乘じて,出兵して西伯利亞干涉を參加し,ソ俄の東進を遲らせ,全滿に對するソ俄の脅威を緩解するのに大きな役割を果たした。我は陵前に親しく拜禮を行ひました。
多摩陵を參拜した後,多摩東陵に向かひました。神鎭を望見した瞬間,我は思はず立ち止まって,長い間神鎭を瞻仰し,心中に貞明皇后の懿德を追想してゐました。皇帝陛下は七歲で母喪後から,康德二年四月訪日時に初て貞明皇后を遇ふことまで,皇母ありません。貞明皇后と皇帝陛下は深い緣あり,僅か一度會ひた母子の緣分を結緣しました。康德七年訪日時に,貞明皇后は已に皇帝陛下を大正天皇の實の皇子の如く待ひ,二人の會面は長い別れを經ての母子の再會のようだった,而して我が皇帝陛下はまた貞明皇后を實の皇母の如く待ひ,貞明皇后を侍奉して大宮御所を遊覽しました。我は貞明皇后の神鎭前に肅立し,心中にただ思ふの者は貞明皇后と我が皇帝陛下の母子の情懷である。我は陵前に親しく拜禮を行ひました。
多摩東陵を參拜した後,武藏野陵に向かひました。武藏野陵前はとても廣く,遠くからでも昭和天皇の神鎭を直接見ることができます。昭和天皇が滿洲帝國の建國、護國に對する功は山のように高く、海のように深く,乾德は恢弘であり,數へ切れないほどありました。昭和天皇の乾德を思ひ出しながら前に進みました。昭和天皇は早年に明治天皇の皇長孫として,良好な儲君敎育を受け,中華民國十二年曁日本大正十二年,攝政としてまた皇太子として昭和天皇は臺灣に行啓しました,それは當時の盛事である。大同元年三月一日に滿洲國が建國し,同年九月十五日,昭和天皇の日本帝國政府は滿洲國を承認しました。英米が率先して我が滿洲國を承認しないことに對面して,日本帝國は滿洲國を承認した最初の國家となり,「群疑ら冒じて避けず。」大同二年三月,日本帝國は滿洲國を爲に義に仗り國際聯盟を脫退し,昭和天皇は特に詔書を發佈し中外に滿洲國の建國の偉大な意義を公告し,「衆咎を犯して辭せず。」康德元年に我國の國體が帝制として確定され,同年の夏に日本帝國天皇陛下の御名代宮である秩父宮殿下は訪滿しました。康德二年に我が皇帝陛下が第一回訪日し,昭和天皇は「懇切相待ち、備さに優隆を極め」,日本帝國官民は「熱誠迎送」である。康德七年に滿洲國の國本が惟神の道の奠め,我が皇帝陛下が建國神廟を建立する盛情は,昭和天皇の首肯を得て初めて無事に完成しました。我は陵前に親しく拜禮を行ひました。
武藏野陵を參拜した後,武藏野東陵に向かひました。香淳皇后の神鎭を望見して,我は香淳皇后の坤德を思ひ,香淳皇后の御靈が現在の日本皇家が多子多孫となることを襄助ができて,儲君の數量奇少の圍が早く解かれることを祈望しました。我は陵前に親しく拜禮を行ひました。
滿洲帝國皇帝と日本帝國天皇は精神を一體の如く,滿洲帝國と日本帝國は精神を一體の如く,滿洲國の建國の淵源は仰て天照大神の神庥、日本帝國天皇陛下の保佑に賴り,故に,我が皇帝陛下の康德七年訪日、張景惠國務總理大臣が謝恩特派大使を充派され康德九年訪日は,みな神國日本の開國の天皇卽ち神武天皇の山陵、日本帝國列聖列后の山陵を參拜しました。滿洲帝國復國の天業は謹んで復國の本義卽ちそのまゝ復國に遵ひ,故に嗣後凡そ滿洲國の官民は政務に因って日本を訪問し,みな神武、明治、大正、昭和の四代の天皇及び皇后の山陵を參拜すべし。
午後,我は多摩靈園に向かひ滿日兩國の功臣の墓を參拜しました:
原任滿洲帝國治安部警務司長、滿洲帝國協和會中央本部總務部長、滿洲映畫協會理事長甘粕正彥
原任日本聯合艦隊司令官東鄕平八郞
原任日本滿洲軍參謀總長兒玉源太郞
原任日本滿洲軍第一軍司令官黑木為楨
原任日本關東軍司令官、侍從武官長本庄繁
原任滿洲帝國祭祀府總裁、參議府副議長、滿洲帝國協和會中央本部長橋本虎之助
參拜方式はこれまでと略同じですので,贅言しない。
原任日本關東軍司令官、日本侍從武官長本庄繁は,曾て我が康德皇帝により大勳位を下賜されました。皇上が本庄繁に大勳位を賜ひ時期はとても早い,御極の始であり,以て其の滿洲事變中に至偉の功績を表彰しました。本庄繁は康德元年に日本帝國天皇陛下の勅許を受けて之を佩用しました。本庄繁は唯三の大勳位を賜り日本帝國の臣民(調查によるとその唯三の大勳位を賜り日本帝國臣民はみな關東軍司令官,その外の兩人は植田謙吉と梅津美治郞)である。本庄繁と植田謙吉、梅津美治郞の違ひは,植田謙吉と梅津美治郞はみな滿洲國駐劄日本特命全權大使,而して本庄繁が日本關東軍司令官に在任してゐるとき滿洲國と日本帝國は未だ國交を建立してゐなかった。したがって,本庄繁は唯一の一つの滿洲國駐箚日本特命全權大使を務めたことのない關東軍司令官となる大勳位を賜った者なりました。本庄繁は大勳位を受賜され,梅津美治郞は大勳位を受賜され,鄭孝胥は大勳位を受賜されました。滿洲國の今日の官民は鄭孝胥の墓と梅津美治郞の墓を參拜すべし,故に滿洲國の今日の官民はまた本庄繁の墓を參拜すべし,したがって,嗣後,凡そ滿洲國の官民は政務に因って日本を訪問し,みな本庄繁の墓を參拜すべし。
原任滿洲帝國祭祀府總裁、參議府副議長、滿洲帝國協和會中央本部長橋本虎之助は,滿洲國の日系官吏の中で此れ迄のところ最高の勳位を受賜され者であり,勳一位を受賜され,淪陷時にソ聯が俘虜にされて,中共に移送され,中共の獄中に病歿しました。原任滿洲帝國【治安部警務司長】、滿洲帝國協和會中央本部總務部長、滿洲映畫協會理事長甘粕正彥は,康德十二年八月二十日に滿洲全土の淪陷の當日に滿洲國爲に殉死しました。橋本虎之助と甘粕正彥は,滿洲國の日系の顯官の典範なり,且つみな一貫的に忠誠を滿洲帝國に盡くしました。橋本虎之助の墓、甘粕正彥の墓に,嗣後,凡そ滿洲國の官民が政務に因って日本を訪問してゐる時,みな之を參拜すべし。
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