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建國九十周年祝典:建國九十周年式典(康德八十九年十一月六日/夏曆康德又壬寅年十月十三)

滿洲帝國流亡政府

建國九十周年式典が康德八十九年十一月六日を擧行された

今日は康德八十九年十一月六日(夏曆康德又壬寅年十月十三)です。滿洲帝國流亡政府は滿洲國標準時(GMT+9)の本日の午前十一時に建國九十周年式典を擧行しました。
國務總理大臣薩里達克氏阿斯蘭は之を主持しました。

建國九十周年式典の參列者

國務總理大臣薩裏達克氏阿斯蘭以下滿洲帝國流亡政府の全體の特任官。

建國九十周年式典の過程

一、滿洲帝國國歌、日本國歌の演奏と歌唱

二、國務總理大臣薩裏達克氏阿斯蘭は畏くも 康德皇帝への祝詞を朗誦しました

三、最高法院長完顔氏塞繆爾は畏くも 『國本奠定詔書』を捧讀しました

四、國務總理大臣薩裏達克氏阿斯蘭は國務院を代表して『建國九十周年史綱』を發表しました

康德皇帝への祝詞

欽テ惟ルニ 皇帝陛下, 明命ヲ 天照大神ニ承ケ,日本帝國 天皇陛下ト精神一體, 元ヲ統ヘテ 極ヲ立テ, 統ヲ無窮ニ垂レ給ヒ,煌々煇々,萬邦ニ表正シ,國基ヲ 神庥ノ顯ラカナルニ開キ,國本ヲ 保佑ノ篤キニ固フセラレ,赫々ナル 丕績,仁愛ノ 洪猷,聲敎ヲ四海ニ張リ,民物ヲ協和ニ興リ。 欽定シタ建國ノ精神,懸ツテ 天日ノ如ク,曠古ノ滿洲帝國ノ復國ノ 天業ヲ啓明シタ。 照鑒ノ下,同仁一志,咸ナ奉體奉行ニ奮ヒ,夙夜ノ願,唯身ヲ 皇上ニ獻シテ其ノ忠誠ヲ貫クニ在ルノミ。茲ニ本日ノ吉,畏くも建國九十周年ノ式典ヲ擧行シ,滿洲帝國流亡政府ノ同仁ヲ率ヰ,謹テ 聖謨永承 重暉積慶愈久フシテ愈昶ク, 國運隆昌億萬斯年愈遠クシテ愈盛ナルヲ願フ。誠恐誠惶,上表以テ 聞ス。

康德八十九年十一月六日
國務總理大臣 薩裏達克氏阿斯蘭

建國九十周年史綱

大同元年(日本昭和七年曁西元一九三二年)三月一日,滿蒙新國家が正式に成立され,國號を滿洲國と定め,滿洲國が建國された。滿洲國は年號を大同と定めた。東北行政委員會は滿洲國建國籌備委員會に改組された。三月九日,康德皇帝は滿洲國執政を就任し,滿洲國の元首とした。執政は其の政府を任命し,鄭孝胥を以て國務總理とし,滿洲國政府が正式に成立された。七月二十五日,協和會が創立された。協和會は滿洲建國と共に生れ,國家機構として定めたる團體にして,建國精神を無窮に護持し,國民を訓練し,其の理想を實現すへき唯一の思想的、敎化的、政治的實踐組織體なり。九月十五日,滿洲國政府と日本帝國政府は議定書を調印し,日本は第一に滿洲國を承認した。九月十五日は友邦承認記念日を定めされた。
 
大同三年(日本昭和九年曁西元一九三四年)三月一日,執政は卽位し滿洲帝國皇帝になり,康德を改元した。康德元年(日本昭和九年曁西元一九三四年)三月一日,滿洲國の國體が建國精神に基づく立憲君主制と確定された。爾來,滿洲國の正稱が「滿洲帝國」を確定された。滿洲國の國家元首は皇帝陛下なり。協和會は唯一永久、擧國一致の實踐組織體として滿洲帝國(流亡)政府と表裏一體となり。
 
康德二年(日本昭和十年曁西元一九三五年)四月,皇帝陛下は第一回日本を訪問された。皇帝陛下は日本皇室と交驩し,日本朝野の奉迎を受けた。回鑾の後,皇帝陛下は五月二日に『回鑾訓民詔書』を渙發し,滿洲帝國と日本帝國の一德一心不可分の特殊關係を强固にした。
 
康德七年(日本昭和十五年曁西元一九四〇年)六月至七月,皇帝陛下は第二回日本を訪問され,日本紀元二千六百年の盛事を慶祝し,皇大神宮を參拜した。皇帝陛下は日本皇室と一家の如して親しい,日本朝野と關係緊密にした。回鑾の後,皇帝陛下は七月十五日に建國神廟を創建し,建國元神として天照大神を奉祀し,『國本奠定詔書』を渙發し,國本を惟神の道に奠めた。十一月三十日,滿洲帝國、日本帝國、中華民國は『滿華日共同宣言』を調印し,これは,中華民國による滿洲國の獨立の正式の承認です。
 
康德九年(日本昭和十七年曁西元一九四二年)三月一日,皇帝陛下は『建國十周年詔書』を渙發し,滿洲國の建國の聖業を槪述し,初めて日本帝國を親邦と呼んだ。
 
康德十二年(日本昭和二十年曁西元一九四五年)八月,ソ聯及びモンゴル人民共和國は滿洲帝國を侵略した。八月十九日,皇帝陛下は崩御した。八月二十日,ソ聯は新京を侵略占領し,滿洲全土が共產黨の不法占領に陷り,滿洲帝國政府が崩壞し,協和會が崩壞した。皇帝陛下の政府の各機關及び滿洲帝國協和會は,康德十二年八月の此の一つ月にのみ,突然の襲擊、解體、および滿洲帝國の流亡政府の建立の失敗の痛擊を經歷した。然し,其れはまた正にこれのためであり,滿洲國の法統は禍に因り福を得た。ソ聯、重慶政權、中共のいずれも,滿洲國の主權が存在するという事實を眞劍に受け止めなかったため,滿洲帝國の領土を倂合する手續き的に「合法的な」手續きを實行できませんでした。したがって,國際法に嚴格に基づき,滿洲全土に對するこれらの三者の支配の法的地位は,すべて不法な軍事占領です。これが、全部の領土が陷落したにもかかわらず,我國が崩壞したことがない原因です。反共主義は滿洲國の建國の精神の一部であり,故に是から以來,滿洲國人は復國に盡力した。
 
康德十二年八月二十日に滿洲全土が淪陷した後,將軍張海鵬、原任參議孫其昌、參議丁超等滿洲帝國の文武重臣は華北に逃げ,原任外交部大臣張燕卿は日本に逃げ,以て滿洲帝國の復國を圖った。侵略者の不法な統治に屈服することを願はなかった滿洲帝國の臣民は全滿の各地に樣々な形式を以て兵を起ち反抗した。
 
康德十三年(日本昭和二十一年曁西元一九四六年),原任駐獨逸國滿洲帝國公使呂宜文は越南に潛入し反共の軍隊を組織した。
 
康德十四年(日本昭和二十二年曁西元一九四七年),中共は其の占領區で所謂「土地改革」を開展し,大量の滿洲帝國の政權の基礎となった全滿の末端の官紳士民を屠殺した。
 
康德十五年(日本昭和二十三年曁西元一九四八年)五月二十三日から十月十九日まで,長春包圍戰でした。共匪に包圍され、蔣軍によって略奪された新京特別市、長春縣、通陽縣等地方での死者數は最多六十五萬人でした。滿洲國の首都圈のエリート人口は大量絕滅した。十一月,共軍は蔣軍を打ち負かし,爾來,全滿が中共に不法占領された。
 
康德十六年(日本昭和二十四年曁西元一九四九年),中共建政でした,重慶政權は台澎金馬に播遷した。原任駐獨逸國滿洲帝國公使呂宜文は中國の雲南省に逃げ,雲南人民反共義勇軍の組建を參與した。
 
康德十七年(日本昭和二十五年曁西元一九五〇年),中共は所謂「鎭壓反革命運動」を勵行し,全滿に滿洲帝國政府の中級以下の官吏を屠殺した。六月,中共は朝鮮戰爭を利用して全滿に駐留部隊を强化し,以て其の全滿に對する不法占領を强化した。十月,原任駐獨逸國滿洲帝國公使呂宜文は雲南に勦共時に戰死した。
 
康德十八年(日本昭和二十六年曁西元一九五一年),將軍張海鵬、原任參議孫其昌等は滿洲帝國の復國を謀畫し,所謂「鎭壓反革命運動」中に中共の僞警察に俘虜にされた。張海鵬が直ぐに殺害された。
 
康德二十年(日本昭和二十八年曁西元一九五三年),中共は所謂「第一個五年計劃」を實施し,全滿の各々の種類の資源を體系的に侵占し略奪する所謂「社會主義工業體系」を建立した。
 
康德二十一年(日本昭和二十九年曁西元一九五四年),參議丁超等は滿洲帝國の復國を謀畫し,所謂「鎭壓反革命運動」中に中共の僞警察に俘虜にされた,以前共匪に俘虜にされた孫其昌と丁超は同時に殺害された。同年,張燕卿が日本で逝去。
 
康德二十一年から康德四十三年(日本昭和五十一年曁西元一九七六年)に毛匪澤東が死したまで,所謂「政治運動」の名の下に,滿洲國の領域內の共匪が,滿洲國の官紳士民に數十の物理的と精神的大肅淸を展開した。この間、滿洲國の國民性は「萬馬が一齊に喑る」特徵を表していた。
 
康德四十三年に中國共產黨の所謂「文化大革命」が終わった後,康德七十年代(日本平成十五年から二十四年まで/西元二〇〇三年から一二年まで)まで,それは滿洲國の國民性の蘇生の時期でした。中共の抑壓は滿洲國の國民性を絕滅することはできませんでした。滿洲國國民の家中の老人の多くは,滿洲國の意識を口コミで傳えていた。その時,多くの國人の心に滿洲國の意識が新たに蘇生した。
 
康德七十年代から康德八十年(日本平成二十五年曁西元二〇一三年)にかけて,インターネットは中共の支配する地域で徐々に普及し,ますます多くの靑年がオンラインで政治的な話題について談論した。康德四十年代(日本昭和四十八年から五十七年まで/西元一九七三年から八二年まで)から康德六十年代(日本平成五年から十四年まで/西元一九九三年から二〇〇二年まで)に生まれた滿洲國の靑年達は,康德皇帝が治世した時に滿洲國の眞相を談論し,廣めるようになった。康德七十九年頃,一部の滿洲國人はソーシャルメディア上で滿洲國に關するいくつかのディスカッショングループを形成し,滿洲帝國復國運動の正式な發足に對する輿論の基礎を築いた。
 
康德八十年から康德八十五年(日本平成三十年曁西元二〇一八年)四月まで,此の期間は協和會復立籌備期でした。
 
康德八十五年四月,薩里達克氏阿斯蘭等は米國で滿洲帝國協和會を復立することに成功した。滿洲帝國復國運動が正式に發足された。協和會復立から康德八十七年三月一日に滿洲帝國流亡政府の完全樹立まで,協和會は暫く滿洲帝國流亡政府の職責を代行した。
 
康德八十五年十一月二十二日,敵が「滿洲」の旗號を僞って亂用して滿洲國の復國の事業を混亂させることを防ぐ爲に,薩里達克氏阿斯蘭等は滿洲帝國流亡政府籌備委員會を設立し,滿洲帝國流亡政府を樹立する進程を開始した。
 
康德八十六年(日本平成三十一年曁西元二〇一九年)二月には滿洲帝國協和會が米國のNGOとして登錄された。協和會全員の絶え間ない努力の結果として滿洲帝國復國運動は急速に繼續して成長してきています。二月十八日,滿洲帝國流亡政府籌備委員會は『滿洲帝國流亡政府籌備委員會章程』を制定し,滿洲帝國流亡政府樹立の根本原則を表明した。此の根本原則には,「滿洲國が嗣皇帝の卽位前に仍康德皇帝を以て今上皇帝とする」ことが含まれています。
 
康德八十六年四月,蕭博宇、張立明等協和會員と滿洲帝國愛國者は支那によって殘酷に拉致され「煽動顚覆國家政權罪」と「勾結境外勢力」として非難された。協和會に對する支那の突然の殘忍な抑壓に直面したものの,勇敢で忠實な滿洲帝國愛國者は恐れることはありませんでした。薩里達克氏阿斯蘭等は海外での作戰を繼續し,蕭博宇、張立明等拉致された協和會員と滿洲帝國愛國者を救う努力を續けてきています。
 
康德八十六年(日本令和元年曁西元二〇一九年)八月二十日,滿洲帝國流亡政府が樹立した。當時,なぜなら滿洲帝國流亡政府はまだ完全に樹立されていなかったため,滿洲帝國流亡政府籌備委員會は仍引き繼き運營されていました。
 
現時點では,滿洲帝國皇帝が不在のため,滿洲帝國皇帝の權限と責任は一時的に滿洲帝國攝政團に歸屬しています。滿洲帝國流亡政府が樹立した最初の日である康德八十六年八月二十日,滿洲帝國攝政團により二つの法令が發布された:
第一の法令(卽ち康德八十六年八月二十日策令第一號『滿洲帝國政府崩壞時ノ法令ノ有效性ノ件』)は康德十二年八月の滿洲帝國政府崩壞時までの總ての先在の法令の有效性の再確認。(英米及び西側同盟國に對する戰爭狀態と總ての關連條項を除く。滿洲帝國は米國及び他の總ての西側同盟國に對する戰爭狀態を公式に終結させた。)
第二の法令は(卽ち康德八十六年八月二十日策書第一號『時局策書』)日本と滿洲帝國の特殊關係を再確認し,滿洲帝國が永久に日米同盟と共存共榮するという公式な發表。(此れは「反米」=「反日」=「反滿」であることを意味す。)
 
康德八十六年十月,滿洲の中共當局は有名な滿洲國人權活動家と滿洲帝國復國參加者の王展博士を拉致した。
 
康德八十七年(日本令和二年曁西元二〇二〇年)三月一日,滿洲帝國流亡政府が完全に樹立された。滿洲帝國流亡政府籌備委員會は全部の使命を完了して自動的に終了した。
 
康德八十七年の春以降武漢肺炎が世界中で流行していることを受け、滿洲帝國流亡政府は日本と米國の國民にマスクを寄付することを決定しました。これまでのところ、日本の以下の團體に合計一萬八千一百箇のマスクを寄付いたしました:
アジア自由民主連帯評議会様、習近平国賓来日反対運動(代表佐藤和夫様)、偕行社様、居木神社樣、西奈彌羽黒神社様 、郷友連盟様、靖国神社様等です。
 
康德八十九年(日本令和四年曁西元二〇二二年)三月一日,滿洲國建國九十周年です。