國家の概況 復國の天業 流亡政府 協和會 帝室の再建 メディア報道 お問い合わせ 加入の方法

復國運動の正式發足

滿洲帝國流亡政府
康德八十五年(日本平成三十年暨西元二〇一八年)四月,愛國者達は全滿國民の自由と幸福を恢復する唯一の方法は滿洲國を恢復する事であるという合意に達しました。そうして同月に薩里達克氏阿斯蘭等は米國で滿洲帝國協和會を復立することに成功しました。

康德八十五年十一月二十二日,敵が「滿洲」の旗號を僞って亂用して滿洲國の復國の事業を混亂させることを防ぐ爲に,薩里達克氏阿斯蘭等は滿洲帝國流亡政府籌備委員會を設立し,滿洲帝國流亡政府を樹立する進程を開始しました。 

康德八十六年(日本平成三十一年暨西元二〇一九年)二月には滿洲帝國協和會が米國のNGOとして登錄されたました。協和會全員の絶え間ない努力の結果として滿洲帝國復國運動は急速に繼續して成長してきています。二月十八日,滿洲帝國流亡政府籌備委員會は『滿洲帝國流亡政府籌備委員會章程』を制定し,滿洲帝國流亡政府樹立の根本原則を表明しました。此の根本原則には,「滿洲國が嗣皇帝の即位前に仍康德皇帝を以て今上皇帝とする」ことが含まれています。

同年四月,蕭博宇、張立明等協和會員と滿洲帝國愛國者は支那によって残酷に拉致され「煽動顛覆國家政權罪」と「勾結境外勢力」として非難されました。協和會に對する支那の突然の残忍な抑壓に直面したものの,勇敢で忠實な滿洲帝國愛國者は恐れることはありませんでした。薩里達克氏阿斯蘭等は海外での作戦を繼續し,蕭博宇、張立明等拉致された協和會員と滿洲帝國愛國者を救う努力を續けてきています。

續けて康德八十六年(日本令和元年暨西元二〇一九年)八月二十日,支那が滿洲帝國復國運動と全滿民衆に對する抑壓を強めているという事實を踏まえ,薩里達克氏阿斯蘭、舒穆祿氏昂古利及び完顔氏サミュエルは,滿洲帝國流亡政府を樹立しました。其れ以来今に至るまで薩里達克氏阿斯蘭等は滿洲帝國復國運動の爲の戰いを主導してきています。當時,なぜなら滿洲帝國流亡政府はまだ完全に樹立されていなかったため,滿洲帝國流亡政府籌備委員會は仍引き繼き運營されていました。

現時點では,滿洲帝國皇帝が不在のため,滿洲帝國皇帝の權限と責任は一時的に滿洲帝國攝政團に歸屬しています。滿洲帝國流亡政府が樹立した最初の日である康德八十六年八月二十日,滿洲帝國攝政團により二つの法令が發布されました:
第一の法令は康德十二年八月の滿洲帝國政府崩壞時までの總ての先在の法令の有效性の再確認。(英米及び西側同盟国に対する戦争状態と総ての関連条項を除く。滿洲帝國は米国及び他の総ての西側同盟国に対する戦争状態を公式に終結させました。)
第二の法令は日本と滿洲帝國の特殊關係を再確認し,滿洲帝國が永久に日米同盟と共存共榮するという公式な發表。(此れは「反米」=「反日」=「反滿」であることを意味します。)

滿洲帝國攝政團が康德八十六年八月二十日に樹立された後,滿洲帝國復國運動に對する支那の彈壓は更に強まりました。その十月に滿洲の支那當局は有名な滿洲國人權活動家と滿洲帝國復國參加者の王展博士を拉致しました。

王展は關東州の首府である大連出身の滿洲帝國協和會員です。彼は支那當局に拉致され滿洲の僞「瀋陽市」で十月十五日に所謂「顛覆國家政權罪」で起訴されました。現在,彼は僞「瀋陽第一看守所」に收監されています。康德八十六年十二月に王展の投獄について自由世界に報道されると知るとすぐに滿洲帝國流亡政府は様々な方法で王展を救う手立てに取り掛かかりました。滿洲帝國流亡政府の働きかけによりフィンランドの外務省は王展に關する此の人權侵害に氣づき、此の違法投獄事件をも認識し、状況を繼續的に監視しています。

康德八十七年(日本令和二年暨西元二〇二〇年)三月一日,滿洲帝國流亡政府が完全に樹立されました。滿洲帝國流亡政府籌備委員會は全部の使命を完了して自動的に終了しました。

康德八十七年の春以降武漢肺炎が世界中で流行していることを受け、滿洲帝國流亡政府は日本と米國の國民にマスクを寄付することを決定しました。これまでのところ、日本の以下の團體に合計18100枚のマスクを寄付いたしました:
アジア自由民主連帯評議会様、習近平国賓来日反対運動(代表佐藤和夫様)、偕行社様、居木神社樣、西奈彌羽黒神社様 、郷友連盟様、靖国神社様等です。

滿洲帝國流亡政府は、助けを必要とする人々にマスクを寄付するだけでなく、支那の攻撃的な世界霸權の野望と戦うように世界を導くことにより滿洲國が助けることができる事を全世界に知らせたいと願っています。